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ヴェネツィア ときどき イタリア

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声なき声をきく、「Safet Zec 絵の力」展

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コッレール美術館、ヴェネツィア
7月18日まで

Safet Zec
Il potere della pittura
Museo Correr, Venezia
8 mag – 18 luglio 2010
www.museiciviciveneziani.it

1943年ボスニアで靴職人の家に生まれる。第二次世界大戦中、ボスニア東部の町からサラエヴォに転居。サラエヴォの工芸高校、ベオグラードで美術院では天才と称される。ベオグラードで、やはり画家であるイヴァーナと出会い、結婚。
古都Pociteljのオスマントルコ地域の古い家を改修して住む。
異なる文化、異なる宗教をもつ人々の間の調和的共存が当たり前だった彼の世界は、内戦の勃発とともに終わりを告げた。Pociteljは破壊され、このとき彼の作品の彫版も全て失う。
さらにサラエヴォの破壊で、彼は家族とともに逃亡を余儀なくされる。1992年、イタリア北東部の町、ウディネにて出版者の協力を得て仕事に復帰。98年にはヴェネツィアへ。
紛争終結後、ふたたび故郷に通い始める。サラエヴォの中心にある、彼のスタジオ兼コレクションも再開、彼の作品の展示のみならず、現在は文化センターとしての役割も担っている。
2004年、モスタルの新しい橋の開通式で、彼の絵を元にウルビーノの学校が製作した版画本が紹介された。将来的には、ようやく修復の終わったPociteljの自宅兼スタジオでも、版画学校を開くことになるだろう。




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Safet Zec(サフェト・ゼク?)。私の知らなかったこの画家の経歴は、それだけで、どれだけの悲しみと怒りを背負ってきたのか、想像するに余りある。
だが、それを全く知らずに、入ってすぐのこの略歴を読まずに、作品を鑑賞したらどうだろう?朽ちた壁に、朽ちた窓やドア。パンとコーヒーカップ、あるいはワインの瓶を置いたテーブル、真っ赤なパプリカ、じゃがいもの入った袋のスケッチ。寝室のベッド。絵の具が所せましと並んだ、画家自身のアトリエの作業机。まさに「静物画」と呼ぶにふさわしいような、静かな、穏やかな、ごくふつうの日常生活の一場面がそこにある。

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ラインも、筆のタッチも、極めて正統派の、したがって見ていて安心な彼の絵を個性的にしているのは、色ならぬ、「古紙」づかい。新聞や古い本の「紙」をキャンバスやデッサン用の画用紙の上に貼りつけ、それが絵の中の陰影や差し色のようになっているものもあれば、新聞がそのまま新聞を描く代わりに貼りつけられていたり。荷物を包むような茶紙を全面的に貼った上に描いた絵では、そのわずかに透けて見える縞模様が生きている。
入ってすぐ目に入る「ヴェネツィアのファサード」(Facciata veneziana)という作品は、崩れ落ちてきそうなレンガの壁に、これまたかなり年季の入った、いくつもの窓が並んでいる。「ファサード」(facciata)といえば、教会や立派なお屋敷の、豪華なものをつい思い起こすが、何でもない建物のこのファサードは、壁もドアも窓も全部歪んでいる。でもこれ、ヴェネツィアならどこにでもありそうな、ふつうの風景。
この大きな絵は、実は絵自体が平らな面ではなくて、やんわりとたわんだところに描かれている。キャンバス地の表と裏に新聞を貼って(おそらくその糊づけの段階であえて歪ませ)、枠に貼らずに、糸で吊ってある。
近づいてみると、あちこちに新聞の文字が見え隠れする。
コラージュとテンペラ、アクリルの混在、それが不思議と、絵をリアルに見せる。

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レンガや木材、しっくい、そして布。どれも風化して、朽ちて、やがてなくなっていく、その間に年月を経ていくからこそが美しい、しみや汚れも、その過程であり、命の証であるかのような、そんな絵たち。

もう1つの彼の絵の特徴は、そこに「人」が不在であること。

寝室や台所、閉店後の食堂を思わせる椅子たち。ヴェネツィアの運河に浮かぶ舟。モノの静かな息遣いだけがそこにあり、「人」がいない。

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「シャツ」(camicia)と題されたシリーズや、自画像さえもその着ているものだけに筆が集中し、顔がない。例外は、「ルイージ」(Luigi)というシリーズだが、これさえも、腕や足は筋肉の1つ1つまで見えるかのように描きこんでいながら、顔は影が薄い。

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そしてもう1つの例外が、「水彩画家Maurice Dunal」というシリーズで、これはRobert Doisneauという写真家の同題の写真を、何度も何度も模写したもの。

戦争の悲劇をくぐりぬけてきた画家、そういう色眼鏡をかけずに、それぞれをそのままの作品として見ていいと思う。見て、何か感じればそれはそれ。でも、そこまで気負って構えなくとも、一枚の絵として、ただそれだけで十分に美しい。

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(画像はすべて公式サイトから)

13 giugno 2010
by fumieve | 2010-06-14 08:21 | 見る・観る
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