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ヴェネツィア ときどき イタリア

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ロレンツォ・ロット展、ローマ

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スクデリーエ・デル・クイリナーレ
6月12日まで

Lorenzo Lotto
Squderie del Quirinale, Roma
Fino al 12 giugno

会場に入ってまず驚くのは、その文字通り「カラフルな」色の洪水。赤、緑、青、ピンク・・・それも濃く鮮やかで、つややかなトーンに、これがほんとうに500年前の絵かと驚かれる方も多いだろう。
最初に目の前に現れるのは、「聖ドメニコの多翼祭壇画」(Polittico di San Domenico, 1506-08)。
ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini)の「聖ザッカリーア祭壇画」(Pala di San Zaccaria)などに似た構図ながら、明らかにその色使いとなんとなくシニカルな表情、そして全体に感じる躍動感が全く違う。




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16世紀初頭のヴェネツィア。そのジョヴァンニ・ベッリーニ、カルパッチョ(Carpaccio)といった、15世紀ヴェネツィアを代表する画家たちが、もはや「巨匠」として腕をふるっていた時代。彼らの下で修業をした若者たちも、独立してとなると実際には仕事のチャンスがほとんどなかった。ヴェネツィア生まれの画家、ロレンツォ・ロット(Lorenzo Lotto)は、活躍の場を求めて外へ出た。ヴェネツィアから北へ30kmほど、トレヴィーゾ(Treviso)が彼の最初の本格的な仕事の場となった。
ちなみに、同じころ、やはり外に仕事を求めて出ていったセバスティアーノ・デル・ピオンボ(Sebastiano del Piombo)はローマ教皇庁で活躍することになる。

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「聖ドメニコ」を見て左側の「聖母子と聖ピエトロ、クリスティーナ、リベラーレ、ジローラモ」(Madonna col Bambino tra i santi Pietro, Cristina, Liberale e Girolamo)が彼のおそらく最初の祭壇画。これはまさに、前述の「聖ザッカリーア」を参考にしたのが明らかで、特に登場人物(聖人)の4人のうち3人が同じなのも比較しやすいところなのだが、2つの違いには重要な意味が隠れていて、その話をすると長くなるので、それは次の機会に譲ることにする。
「聖ドメニコ」の右側にある「聖母の出現」(Apparizione della Vergine)もトレヴィーゾ県内アーゾロ(Asolo)という町のドォーモのために描かれた作品。

第2室から奥へと、場所はヴェネト州トレヴィーゾからイタリア中部マルケ州(Marche)へ移る。
トレヴィーゾ、マルケでの初期の活動、明らかに彼の名前を広くイタリアに知らしめるきっかけとなったのだろう。このころ実は、ローマの法王庁にも呼ばれている。
が、レカナーティ(Recanati)、イェージ(Jesi)などマルケ州の町で祭壇画をいくつか描いたあと、活動の中心はロンバルディア州(Lombardia)、ミラノにも近いベルガモ(Bergamo)に移ることになる。

第3室の右手、今でもベルガモの小さな教会にある「玉座の聖母」、通称「聖ベルナルディーノ祭壇画」(Pala di San Bernardino)は間違いなくロットの初期の傑作の1つ。前述のベッリーニ風の礼拝堂型の背景を取っ払い、聖人全員を自然の風景の中に置き、聖母子の上にはビザンチン風のクーポラではなく、濃い緑の布を天使たちに広げさせた。

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マルケ州は、今でこそ同じ中部のトスカーナ州、お隣のウンブリア州に比べると知名度も低く(交通のアクセスもいいとは言えず)地味な感じだが、アドリア海に面しており、当時のヴェネツィア共和国にとって商業、政治両面にとって重要な拠点であった。
ベルガモも同様で、今でこそ州をまたいではいるが、一時はヴェネツィア共和国のテリトリーの一部であり、ここもやはり、ヴェネツィアと深い関係にあった。

ロットも、だから決して、放浪の果てにそこにたどり着いたわけではなく、ツテやコネを通じて呼ばれたのだが、といって、国際的に活躍していた、のかというとそれとも違う。
ロットはその長い生涯で何度も、生まれ故郷ヴェネツィア、一大共和国の首都での活躍を夢見て、ヴェネツィアに戻っている。だが、ベルガモから意を決してヴェネツィアに戻ったときにはすでに、テッツィアーノ(Tiziano)が新しい世代のトップとして頭角を現し始めていた。
強烈な色、うるさいまでのジェスチャー、リアルすぎる表現など、彼の特徴そのもののが、おそらく「大国」ヴェネツィア、自らを「超・静謐なる(国)」(Serenissima)と呼んだヴェネツィアの好みに合わなかったのだろう。それはティッツィアーノから、ティントレット(Tintoretto)、ヴェロネーゼ(Veronese)と続いていく、彼らの絵と比較すると容易に想像できる。

確かに、宗教画であるはずなのになぜか、ロットの絵はしばしばコケティッシュ。

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こちらは私がひそかに「ビックリ受胎告知」と呼ぶ作品、「(清い体のまま)神の子を宿すだろう」という、それはそれはビックリであろう天使のお告げに、「へっ!?まじ?」という表情のあまりにも人間的な聖母に笑える。
もう1つは、「スザンナと老人」、若い美人妻が年老いた役人たちに水浴をのぞかれる場面だが、こちらは私は「あれ~お代官さま、おゆるしを~」と呼ばせていただいている。これは本来は、(特に依頼主にとって)美しい女性のヌードを堂々と描くための典型的な題材なのに、これはどうなの?と思ってしまう。

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ヴェネツィアでの仕事は、わずか。そのうち、「聖アントニーノのお恵み」(Elemosina di Sant’Antonino)、

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「栄光の聖ニコラ」(San Nicola in gloria con i santi Giovanni Battista e Lucia)、これも内容に立ちいると長くなるのでここでは省くが、どちらも、ヴェネツィアの中にあった中規模の同心会、同業組合の発注によるもの。

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パラッツォ・ドゥカーレ(Palazzo Ducale、総督館)内部、あるいはドージェ(Doge、総督)の肖像画など、国の大きな仕事は請け負うことがなかった。

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一方、彼の肖像画の依頼主は、聖職者や商人など、町の裕福な人々。今でもそこらへんで出会いそうな、個性的な彼らの「顔」、決して美しいと言えるばかりではないリアルで、だがしばしば詳細は豪華な肖像画は、おえらいさんでない、新興ブルジョア世代にはむしろ好まれたのも想像に難くない。

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不思議な画家ロットはまた、寓意画でもすばらしい才能を発揮しているのだが、これもまた別の機会に・・・。

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祖国ヴェネツィアを失意のうちに離れ、ロットは結局、極貧かどうかはともかく、決して豊かともいえない人生を、マルケの一種の老人ホームで終える。

長く、美術史上からも放置されていたから、世界の大きな美術館に大きな作品が少ない(実は、意味深い、いい作品はあちこちにあるのだが)、少ないからなかなか知られない。
東京やニューヨークのテイストではないかもしれない、だが、そうでなくたって面白いアーチストは今だってたくさんいるはず。ヴェネツィア共和国の路線には合わなかった、だからと言って無視してしまうにはあまりにも惜しい。

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(写真はすべて、公式サイトおよびwikiなどより拝借しました。)
9 giu 2011
by fumieve | 2011-06-10 17:32 | 見る・観る
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