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ヴェネツィア ときどき イタリア

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「ピエトロ・ベンボとルネサンスの創造」展、パドヴァ

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ルネサンス時代を代表する人文学者、ピエトロ・ベンボは、近代イタリア語を確立した、いわば、「イタリア語の父」として知られる。
ヴェネツィア生まれながら、トスカーナ語にたけていたのは、ヴェネツィア共和国の元老院議員であった父親について、小さい頃にフィレンツェに滞在していたためらしい。1492年、22歳のときから2年間、シチリアのメッシーナにてギリシャ語を学ぶ。
ヴェネツィアに戻ったピエトロは、出版業者アルド・マヌンツィオの元で、まずはギリシャ語文法の本、そしてそのシチリア滞在をラテン語の対話形式で語った自著De Aetnaを出版する。
パドヴァで学位を得たのち、当時、重要な文化の中心地となっていたフェッラーラの宮廷で研鑽を積んだのはいかにもルネサンス期ならでは。ここで、「狂乱のオルランド」のルドヴィーコ・アリオストに出会い、「アーゾロの人々」(Gli Asolani)を書く。これは、アーゾロのカテリーナ・コルナーロの宮廷における対話形式の恋愛論で、完成後、自筆による一部は、イザベッラ・デステに捧げられた。




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1502年、フェッラーニ再び戻ったピエトロは、アルフォンソ・デステ夫人、ルクレツィア・デステと出会い、恋愛関係に陥る。
(上写真は、ルクレツィアが手紙につけてピエトロに送った自らの金髪の束(とされるもの)、アンブロジアーナ絵画館所蔵)

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その後、1506年から12年にかけてウルビーノに滞在、ここで彼の代表作となる「俗語論」(Prose della volgar lingua)を書き上げる。ただし、出版は1525年まで待たねばならなかった。
1513年には、のちの法王クレメンテ7世となるジュリオ・デ・メディチについてローマへ移住、さらに法王レオーネ10世に彼の書記官に任命される。
友人ラファエロの夭逝、それに引き続き1521年に法王が亡くなると、ベンボは愛人ファウスティーナ・モロジーナ・デッラ・トッレのいたパドヴァに移住。このパドヴァ滞在中にようやくヴェネツィアで「俗語論」を出版する。1529年にはヴェネツィア共和国の歴史記録家およびマルチャーナ図書館の司書を任命される。
1539年には、法王パオロ3世に枢機卿に任命され再びローマへ。1547年にローマで亡くなった。
(ここまで、主にイタリア語版wikipediaを参照)

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宮廷から宮廷へ、同じイタリアとはいえ当時はそれぞれ別の国であったところを転々とし、活躍をしたところは、まさにルネサンス時代の申し子と言っていいだろう。派手な女性関係を、文芸の糧にしていくのはもちろん、 それまでの女性関係や、子どももいることも知られながらも枢機卿に任命されたのもまた、今では考えられないけれども、当時は決して珍しいことではなかった。

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話が長くなったが、この展覧会は、ピエトロ・ベンボという人を通じてルネサンス文化とは何か、再確認しようというもの。文学、恋愛、宮廷生活、交遊関係、そしてイタリア各地から芸術家を集め、新たに生まれ変わろうとしていたローマ(ヴァチカン)。ティツィアーノによるベンボの若い頃、および枢機卿となってからの肖像画(ベサンソン美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)、ペルジーノの「聖マグダラのマリア」(パラティーナ)、ラファエロの「エリザベッタ・ゴンザーガの肖像画」(ウフィッツィ)、ベッリーニの「聖母子像」(個人蔵)、ミケランジェロの「磔刑の素描」(大英博物館)にセバスティアーノ・デル・ピオンボの「十字架を背負うキリスト」(プラド)と、絵画自体の点数は少ないものの美しく、かなり質の高い作品が多く。かつ、その合間に、ベンボ自身らの自筆手稿やインキュナブラ(初期印刷本)など、歴史的資料が並び充実度が高い。

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さらに、ベンボはパドヴァ時代に、多くの美術品や古代彫刻などを集めて、自宅を一種の「美術館」にしていた。当時実際にベンボの家に招かれてそれを見た、ヴェネツィアのマルカントニオ・ミキエルの詳細な記録に基づいた、コレクションを再現した部屋もあり、ここにはマンテーニャの「聖セバスティアーノ」(カ・ドーロ)も展示されていてちょっとびっくり。

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唯一、気になったのはジョルジョーネ。解説やカタログによると、ジョルジョーネの作品が4点でていることになっているのだが。
ポスターなどに使われている、ローマのパラッツォ・ヴェネツィア所蔵「2人の肖像」、ウィーンの「フランチェスコ・マリア・デッラ・ロヴェレの肖像」はまあ、そうなのだろう、きっと。ブダペストの「若者の肖像」は、どこがジョルジョーネ???と思ってしまったが、これは調べてみると、一応ジョルジョーネということで通っているらしい。
問題は「緑色の書物を手に持つ若者の肖像」(サンフランシスコ)。確かに、顔も服装も、そして何より手にしている緑色の本も大変美しく描かれているのだが、美しすぎるだけにジョルジョーネ???と疑ってしまう。古い資料では単に「ヴェネトの画家」となっているし・・・。

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しかもここでは、通常は、アルド・マヌンツィオが考案したと言われる持ち歩き可能な文庫サイズの「本」についても、ベンボがマヌンツィオに提案したように紹介されており、そのあたりはこれ以上の史実を知らない私は???なのだが・・・。
話の流れからして、ここにこの絵があるのはとても自然だし、ぜひあるべきだと思う。だが、十分に美しい絵なだけに、無理に「ジョルジョーネ」としなくてもいいように思ってしまうのだが・・・どうなんだろう?

コンパクトながら内容ぎっしりの企画展、お天気のイマイチな日曜日の午後は、決して広くない会場がごったがえすほどの人であふれていた。

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ピエトロ・ベンボとルネサンスの創造
パドヴァ、モンテ・ディ・ピエタ館
5月19日まで

Pietro Bembo e l’invenzione del Rinascimento
Padova, Palazzo del Monte di Pietà
2 febbraio - 19 maggio 2013
www.mostrabembo.it

17 mar 2013
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by fumieve | 2013-03-18 10:11 | 見る・観る
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