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ヴェネツィア ときどき イタリア

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ダンス・フェスティバル もろもろ

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6月18日付けの本ブログで紹介したように、ヴェネツィアでモダン・ダンスの公演が連日行われている。今回、開催前から大きく話題をさらっていたのが、今日公演のあった
Felix Ruckertの「Messiah Game」(ドイツ)。「最後の晩餐」を含む、新約聖書の場面にヌードと性描写を持ち込んだ、というので、ヴェネツィア大司教からは正式に上演停止の文書も届くなど、内外から批判が集中していた。
同フェスティバル関係者、ヴェネツィア市長(「哲学者」、著書も多い有名人)とも、批評は作品を見てから、あらゆる「検閲」行為を拒否。キリスト教関係団体による、公演妨害が心配されたが、ちょうど公演2時間前にあった激しい雷と夕立のためか、ビラと垂れ幕、メガホンで反対を訴える人々はわずか10数人と寂しい限り。懸念されたトラブルも何もなく、無事に公演にこぎつけた。
肝心のダンスは、というと、確かにそう思ってみると聖書の場面の引用と知れるところはあるし、少々過激なところもあるが、全体としては、むしろ「さわやか」なダンス。今回は、フェスティバル自体のテーマ「ボディ&エロス」だったこともあり、もっと過激で、もっと嫌悪感を与えるものはたくさんあったし、そもそもビジュアル・アート(美術)と呼ばれる中では、聖書やキリストの冒涜にあたる表現も、もっともっと過激なものもたくさんあるのではないか。(それがいいか悪いかという問題はさておき。)
完全に話題先行、悪評も宣伝のうち、という印象を受けた。

さて、ざっとおさらいをすると、ダンス・フェスティバルの開幕を飾ったのは、日本のカンパニー、Batikの「花は流れて時は固まる」。女性ばかり8人の、自由でいて、計算されつくしたダンスは会場となったマリブラン劇場の観客を魅了した。実は私は、現代ダンスの魅力に、あっさりとここでとりつかれた。
ダンスは、人間の体による表現がもちろん基本中の基本であるが、同時にこうした舞台美術となると、よく言われるように「総合芸術」であることを改めて認識した。体のライン、動きを、もっとも美しく、みせる衣装。現代ダンスでは衣装は最低限、レオタードなどが多いのだろうと思うが、ここでは、ひらりとしたワンピース。それもシンプルなようでいて、一人一人少しずつ形が違ったり、白と青の色使いの変化などが効果的。そして、照明によって、体のラインが衣装を透かしてシルエットとして映る。さまざまな要素が一体となって生み出される効果に、感嘆した。同カンパニーの「SHOKU」もよかった。
Batikを見て、唯一、現代ダンスでは音楽は録音を使うのは仕方がないのか、と残念に思っていたのを、見事に覆してくれたのが、森山開次さん「The Velvet Suite」。スペースの使い方、静かな表現など、しばし日本の能を思い起こさせるエキゾチックな作品。バイオリニストも同じ舞台上に登場し、演奏して、去っていくところがまた、能舞台を思わせた。
もう一組、日本から参加だったのが、山川冬樹さんの「Spontaneous core」。プログラムに「心臓の音をマイクで拾い、電球に明かりをつける」システムなどが紹介されており、なにやら面白そうだとかなり期待していたのだが、耳障りで大きすぎる音、見るに耐えない映像の濫用、途中、素っ裸になって踊りつづける女性ダンサー、と、個人的には全く好きになれなかった。昨年もこの大会に招聘されたらしいのだが、これをダンスといっていいのか疑問。アヴァンギャルド音楽、またはパフォーマンス芸術と紹介されたほうがしっくりくるだろう。もっとも、その境目のないのが現代の芸術なのだが。
1997年に、アート・ビエンナーレ展で金獅子賞をとっているMarina Abramovic(セルビア)は、「The Erotic Body」というパフォーマンスによる参加。巨漢の女性とぶ男が裸で見つめ合う、かなりショッキングなポスターが事前に目をひいたが、パフォーマンス自体はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
実験的試みとして注目された、フェスティバルの総合ディレクター、Ismael Ivo(ブラジル)により演出された「Mercato del corpo. Vendita all’asta di danzatori e danze」。ベリー・ダンス(女性)やフランメンコなど、出身や内容の異なる男女6人のダンサーを実際に競売にかける、というもの。競り落とせば、ホテルの1室で、たった1人でそのダンサー10分間の独演を堪能できる。ただしこれは、入場者にその意図が予めきちんと伝わっていなかったこともあり、競売自体になかなか声のあがらない、寂しいものとなった。
韓国のLDP(Laboratoru Dance Project)は、「Boulevard」と「Position of body」の二本立て。10人ほどの男性ダンサーたちが、今時の男の子風だったり、ショーツ1枚だったり、次々と衣装をかえてリズミカルなパフォーマンスを繰り広げる「Boulevard」は楽しい作品だった。「Position...」のほうは、はじめに、その男の子たちが全員全裸でびっくり。
Francesco Ventriglia(イタリア)の「Il mare in catene」。
スカラ座のバレエ団員らしい、クラシック・バレエの動き、ライン。体そのものが圧倒的に美しい。ともかく、バランスがいい。極端に細すぎず、といって、筋肉隆々すぎず、手足の長さ、女性の腰のくびれ、男性の尾骨のライン。このクラシックな美には、我々東洋人はやはりどう頑張ったって追いつかない。1人1人の体形はやはりかなわない。
が、日本のBatikにせよ、韓国のLDPにせよ、見ているうちに、はっと、とても「美しい」、「面白い」と思える瞬間がある。思わず引き込まれる。これが舞台のよさだろう。彫刻ではない。生きた1人1人の人間の表現力、そしてグループにより編み出される・・・。
モダン・ダンス側からイタリアを代表するSimona Bucci。音楽が、単なる効果音楽ではなく忠実に「語り」になっている点、具体的な舞台セットなどに加え、踊りも具体的な表現に終始していた。会場となっている、アルセナーレの小劇場を後にして、帰る道々の声を聞いていると、Francesco Ventrigliaが概して好評だったのに対し、こちらのBucciはさんざんだったようだ。

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「ボディ&エロス」というテーマ、そうでなくとも元来「ダンス」というのは、独演でない限り男女のペアが基本中の基本であることは疑いないだろう。その中で、女性だけ、男性だけで舞台を作り上げている日本のカンパニーはかなり異色なはず。韓国のLDPは、誘惑的な女性ダンサーも登場し、絡みもあるが、主役はあくまでも男性陣。その意味で日本とやはり近いものがあるだろう。
ところで、いくつかダンスで見られたのだが、いくら体そのものをみせる芸術だからといって、全裸にならなくてもいいのではないかと思う。全裸になられても、美もエロスも全く感じない、と思うのは私だけなのだろうか?

3年契約だった総合ディレクターも、今年が最後。来年も続投となるのか、交代となるのかはまだ未定。どうなるにしても、また来年、いろいろなダンスを見るのを楽しみにしていたい。

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27 giu 2007
by fumieve | 2007-06-28 07:34 | 見る・観る
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