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ヴェネツィア ときどき イタリア

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(ヴェネツィア)映画祭史・1

Storia dei festival cinematografici

今年、第64回を迎えたヴェネツィア国際映画祭。世界3大映画祭のうちの1つ、特に、世界で最も古い映画祭である。

映画祭、映画の「フェスティバル」、とは何か?まず、限られた時間と場所で開催されるもので、単一にせよ複合にせよ、共通するテーマがあること。そして現在は多くの場合が、コンペティション方式、つまり賞がでる。イタリアには大小数多くの映画祭があるが、最古のヴェネツィア映画祭は、1932年に「国際映像芸術博覧会」として始まった。
1932年は、映画史にとって重要な年で、音声を入れる技術が開発されたこと、また、モンタージュ技術が開発されてきたり、と映画も発明当初から比較してこのころには格段の進化を遂げていた。

なぜヴェネツィアで?
19世紀後半、第二次産業革命を経た欧米は、新しい消費社会が幕を開ける。「万博」が大きな社会現象となったのはその象徴的なできごとであり、その中で、1895年、ヴェネツィアで「国際芸術展」が開かれた。これが、現在の「ヴェネツィア国際アート・ビエンナーレ」の始まりである。1930年代に入り、ビエンナーレは改革を遂げる。まず、31年に音楽部門を独立、そして32年に映画、34年には演劇も独立させた。
それまで、映画は大衆娯楽であり、芸術とは認識されていなかったのだが、「映像芸術展」として独立させるにあたり、別の思惑と一体化した。
20世紀初頭、ヴェネツィア出身の政治家、セルジョ・ヴォルピは、この町が危機にあることを訴える。「大きなヴェネツィア」のために、工業化、及び、観光と文化の強化の、2つの柱を掲げる。ヴォルピは、1917年にヴェネツィアの目の前、陸側のマルゲーラに港を開き、工場を誘致する。そして、32年、映画祭を創設する。
目的は、観光都市ヴェネツィアの、その吸引力をさらに格上げすることでもあったために、真夏の、海岸リゾート、リド島がその会場に選ばれた。

ヴェネツィア映画祭、1945年まで
ファシスト政府に与していたヴォルピの発案であったにせよ、ヴェネツィア映画祭は、少なくとも最初の数年は、完全な自由を謳歌していたことも大きな特徴である。つまり、アメリカ、フランス、ソヴィエト・・・と参加国に国境が全くなく、「敵国」とされていた国の作品も隔たりなく上映されたばかりか、内容に対する検閲もなかった。その「自由」こそが看板であったのである。
第2回は2年後の1934年、3回は翌年35年に開催され、それ以降、毎年開かれることとなる。37年には、映画祭館が建設され、それまではホテルの庭やビーチの特設会場での上映だったのが、室内上映へと変わる。が皮肉にも、このころから政治情勢が急速に変化し始める。39年が事実上、最後の「自由な」映画祭となった。1940年9月27日、三国軍事同盟の締結。この年、映画祭はそれまでのリド島から、ヴェネツィア本島に会場を移され、枢軸国およびその友好国の作品のみの上映に限定された。日本映画が初めてヴェネツィア映画祭に登場したのも、したがってこの年である。
41-43年には開催されたものの、「国際」レベルの映画祭ではないとして、現在はその数に数えていない。44-45年は休止された。
ヴェネツィアの若い映画評論家、パジネッティの言動は注目に値する。彼は、開催初年度から、「ほんとうの自由ではない」ことを指摘していた。「上映される映画が、制作会社や配給会社によって選ばれている以上、商業的に好ましくない映画は排除される危険がある。映画の選択の段階から、映画祭自体が完全に独立した存在でなければならない」。

戦後の歩み
46年、ヴェネツィアの本島で映画祭が再開される。ただし、コンペティションはなし。この年と翌47年は、戦後イタリアの「統一」ムードの中で、政治的思惑に全く左右されることなく、その役割を取り戻す。が、48年、世界が東西冷戦へと突入する中で既に空気は変化する。同年、イタリアではキリスト教民主党(DC)が政権を握る。反・社会主義、共産主義がイタリアを支配し、ネオリアリズムは、反体制派の鏡となり得る危険な存在として退けられるようになる。
イタリアを代表する映画監督ルキノ・ヴィスコンティが、現在でも傑作と評される「揺れる大地」(1948)、「夏の嵐」(1953)、「若者のすべて」(1960)ですべて賞を逃しているのがいい例といえる。ヴィスコンティはミラノの貴族出身でありながら、共産党を支持していた。
とりあえず、再考・再編の余地なく再開した映画祭だが、50年代に入り新しい姿が確立してくる。まずは、「スター主義」。映画祭は、大女優、スターをあがめる場所となった。一方、未知の世界の発見の場となったのもこのころからである。1951年には黒澤明「羅生門」が金獅子賞、52年から3年にわたり溝口健二が受賞。57年にはインド映画も賞をとった。
50年代末にはヌーヴェルヴァーグの到来。60年代に入ると、世界的な社会情勢が映画と映画祭にも大きな影響を与えるようになる。
(続)

大学の時間割を調べていたら、「映画祭史」というのがあったので出てみることにした。先週から始まり、今日で2回目の講義。映画もあまり知らない上に、イタリアの近現代史にも疎いのは痛いが、ここ3年ほど通った、あの映画祭の背景を知るのはなかなか面白い。
現在でも、最高俳優・女優賞をCoppa Volpi(ヴォルピ杯)と言うのだが、最高映画賞が金獅子だから、その下の賞はvolpi=キツネなのかなーぐらいに思っていた。まさか創設時代からの名前をそのまま使っていたとは。
Pasinetti(パジネッティ)も、現在の市立ビデオ・センターの名前になっているのだが、そういう人だったのか、と納得。歴史は侮れない・・・。

19 novembre 2007
by fumieve | 2007-11-20 05:16 | 学ぶ・調べる
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