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ヴェネツィア ときどき イタリア

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イタリアの見た日本人11・おさらい:日本の男子の服装の歴史



イタリアの見た日本人:これまでのお話
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

またちょっと話が元に戻ってしまうが、天正少年使節団の服装について調べていたときに、ふと疑問に浮かんだのは、では彼らは一体、ほんとうは何を着ていたのか?ということ。
絵が存在するのはみな、「和服」には似てもにつかない、不思議な服装のものばかり。ほんとうはこういうものを着ていたはずなんですよ、というのを示そうと思い、こちらの図書館である限りの日本の服飾史の本を探すも、いまひとつ。イタリア語でなくても、フランス語かもしくは英語の文献であれば、そのまま引用できるのに、と皮算用していたのにあえなく計画倒れ。
急遽、日本から取り寄せたのが、「服装の歴史」(高田倭男・著、中公文庫)。各時代の服装の特徴や構成、またTPOなど、初心者にもわかりやすくコンパクトに説明されていて、とてもいい本だったのだが、個人的には、これを読んだらもっと頭を抱えてしまった。
つまり、16世紀後半、地方の武士の家の若者たちは、何をもって礼装としていたのか?

同書から、簡単に日本の男子の服装について、かいつまんで歴史をたどってみる。

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まず、政治も文化も、中国(唐)からの影響を直接受けていた奈良時代までと異なり、日本固有の服装が発達・定着するのは平安時代から。宮廷における男子の礼装として、「束帯(そくたい)」が規定された。これは驚くべきことに、19世紀まで貴族階級の礼装であり続ける。








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束帯が、優美さを最大限に表現したものなら、鎌倉時代に武士階級で定着したのは、よりシンプルでかつ強さを表現したもの。糊を貼って生地を固くした「強装束(こわしょうぞく)」、またはもともと狩のための装束として発展した「狩衣(かりぎぬ)」が、この階級の礼装として使われるようになる。







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そして、簡易服を意味し、前の開いた「直垂(ひたたれ)」、これが袴とともに、長く武士階級の礼装となっていく。絹のみならず、麻地も用いられた。似たような形で、「大紋(だいもん)」や「素襖(すおう)」もやはり武士階級の服装となるが、これらは麻地がふつう。







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もともとは内着であった「小袖(こそで)」が、室町時代になると独立した外着として発展する。それと同時に生まれたのが、「肩衣(かたい)」で、袖なしの上着といったところ。
袴とともに着用し、江戸時代にはそれが発展して、「裃(かみしも)」と呼ばれるようになる。








少年使節団が「和服」でローマ法王に謁見した、それはきっと「直垂」姿だったろう、と、最初勝手に想像していた。が、この本の示す通り、少年たちがイタリアへ向けて出国した1582年は、日本の男子の服装の過渡期にあったといってよい。

1番手っ取り早く、当時の肖像画を見ても、たとえば織田信長は、
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よく知られる肖像画(豊田市、長国寺)は肩衣姿、









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だが、束帯のもの(神戸市立博物館)もあり、こちらはよりフォーマルに見える。








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豊臣秀吉は直衣(のうし)姿で、これは束帯に準じる貴族階級の礼装。(岐阜歴史博物館)









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そして、徳川家康は束帯(堺市立博物館)、という具合。










使節団についての、日本側の資料をあたれば、ぱっとどこかに明記されているのかもしれない。が、こちらの資料ではすべて、「かの国の服装」とあるだけで、それが、束帯なのか肩衣なのか、形の描写から推察するほかない。

・・・これを書きながら、今までの項をおさらいしていたら、重要なエピソードを紹介するのを忘れていたのに気がついた。

2005年、ローマのボンコンパーニ・ルドヴィージ家で、一枚の絵が発見された。ボンコンパーニ・ルドヴィージ家は、少年使節団を謁見したグレゴリオ13世の直系の末裔。その由緒正しき家のお屋敷の本棚で、本の間にはさまっていたのは、「ドン・マンショ、・・・1585」と記された、1枚のデッサン。油彩、またはテンペラなど本作のための下書きと思われる。

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完成作でないのは残念だが、写真で見る限り、精密で正確なデザインで、保存状態もかなりよいようだ。グレゴリオ13世が、自分のために「個人的に」描かせたものだったのだろうか?
真偽のほどはともかく、これがもし本物、またそうでなても、「本物のデッサン」からうつしたものであるとすると、ひとつ疑問が解決することになる。
当時のイタリアの礼儀規定にのっとり、首を出さないようスペイン風襟をつけているものの、全体は和装をしている。上衣は肩の部分で切れてひだのようになっており、肩衣のように見える。
これは実は、ボローニャの本の挿絵にも通じるものがあるから、少年たちの服装は、肩衣と袴だったと言ってよいだろう。

(続)12・常長の服装

7 ago 2008
by fumieve | 2008-08-08 07:11 | 卒論物語
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