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ヴェネツィア ときどき イタリア

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ココ・シャネルとヴェネツィア

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お針子から、その才能を認められて帽子専門店を開き、やがてあの世界の「シャネル」を生み育てあげたガブリエル・シャネル、通称ココはまた、その数多くの財界、文化人等との付き合いの広さ、とくに彼らの多くを「育ててきた」と自他ともに認めているでも知られる。いくつもの大恋愛をしたココには、ヴェネツィアにもまた、いかにもそれらしいエピソードもあった。

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1920年の夏、ひとつの恋に終止符を打ち、傷心のココはヴェネツィアでロシア人脚本家、セルゲイ・ディアギレフと出会う。彼はストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」を制作中だったが、作品完成のための資金不足に悩んでいた。
その後、パリで再び出会ったとき、ディアギレフはマダム・シャネルから30万フランの小切手を受け取る。寄付のただ一つの条件は、匿名であること。
・・・彼らの関係は、非劇的な最期のときまで続いた。
再びヴェネツィア。1929年夏、アドリア海東岸をクルーズ中だったココの元に、1通の電報が届く。「具合が悪い。すぐに来てくれ。セルゲイ」
クルーズ船の方向を転換させ、かけつけたココを前に、ディアギレフは、リド島、ホテル・デ・バンの小さな島で、糖尿病のためにまさに息をひきとらんとするところだった。8月18日。彼女のほかに、彼の愛人であったダンサー2人がいた。Sergej LifarとBoris Lochno。言い争い、ののしり合う2人をよそに、ココは再びディアギレフの葬儀の費用一切を負担する。
墓地、サン・ミケーレ島へ向けて出発するゴンドラ。先頭の、金色の羽根をもつ天使の乗った、すべて黒におおわれたゴンドラはディアギレフの棺。2艘めは、白をまとったシャネルとその友人2人、そしてくだんのダンサー2人。3艘めに、葬儀を執り行うロシア正教の聖職者5人が乗った。
相変わらず小競り合いを続ける2人のダンサーに、「いい加減にしなさい!」と怒ったココは1971年1月11日、「何も後悔することはありません。やっていないこと以外は」と言ってその生涯を閉じた。

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サン・ミケーレ島のディアギレフの墓の後ろに、そんなストーリーが隠されていたとは知らなかった。リド島のホテル・デ・バン、作家の死、若く美しい青年・・・「ヴェニスに死す」をほうふつとさせるストーリーは、まるで映像が目に浮かぶよう。そして、ココ・シャネルが登場する分、その映像は「ヴェニスに死す」よりさらに華やかで美しい。

(引用部分は2008年10月19日付け、Corriere della Sera内、Corriere del Veneto p.18 “Il Pianto di Coco Chanel”より要約)

21 ottobre 2008
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by fumieve | 2008-10-22 16:46 | ヴェネツィア
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