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ヴェネツィア ときどき イタリア

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カテゴリ:卒論物語( 19 )

イタリアの見た日本人17・迷宮へ


(このシリーズは、2007年7月に卒業した際の卒業論文「16-18世紀の西洋図像における日本の服装」を、研究・調査途中のつまづき・つぶやきなどを交えつつ、日本語でまとめたものです。)

イタリアの見た日本人:これまでのお話
16・みたび、「日本の若者」
15・幻のピエトロ・リッキ
14・「日本の若者」、ふたたび
13・鎖国
12・常長の服装
11・おさらい:日本の男子の服装の歴史
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

ほんとにあと一歩、のところまで行っていたのに、前回からずいぶん間があいてしまった。

この卒業論文、ひいては卒業にあたっては、何よりもまず、すばらしい指導教官に出会えたことに感謝しなくてはならない。ヴェネツィア大学・文学哲学部・文化財保護および美術史科の講師、服飾・テキスタイル美術史のドレッタ・ダヴァンツォ・ポーリ(Dretta Davanzo Poli)先生。
もともと好きな分野とはいえ、まさか専攻にするとは思っていなかったモード史を選んだのは、まずは同先生の授業に魅かれたことにある。素材である糸から、さまざまな織物や刺繍という工芸品、そして衣類や装飾品への仕立て。絵画や彫刻、書籍の中に見るその姿と歴史。
社会史や風俗史、表舞台だけでないさまざまな「歴史」にも目を向ける必要があるのみならず、その全てが、ひとの手を通じてこの世に送り出されてきたこと、そしてまた、保存や修復の手を必要としていること。
ヴェネツィアおよび近郊各地での美術館や工芸品コレクション責任者などの豊富な経験と机上だけでない圧倒的な知識は、文句なしに私の憧れとなった。

まともにイタリア美術史にぶつかっても、やはり他の学生には立ちうちできない、それならば、何か自分が日本人であることを生かした研究をしたい、と相談に行った私に、いくつかの興味深いテーマを提案された。そして、研究に入ってからも、すぐに壁にぶつかっては、簡単に白旗を上げてやってくる困ったちゃんを、励まし、おだて、次々と適切な指導をされ、かつ、一字一句最後まで、私のひどいイタリア語に目を通し、手を入れてくださった。

そう。まさに提出締切間際、例によってぎりぎりまで、どうにかこうにか出来上がった論文に目を通しながら、最後の修正・訂正を行っていた。
ふと・・・ざーーーっと血の気が引く、いや、むしろ、かあーーーっと再び頭に血が上るのを感じた。
慌てて先生に「内容を変更してもいいですか?」とメールしたのは、締切2日前だったと思う。何でこんなことに今ごろ気がついたのか?・・・いや、今まで気がつかなかったのか?
いくらコピーとはいえ、もういい加減、必要部数を印刷しなければ間に合わない。
1日待ったが、返事がない。実はそのころ、ポーリ先生はご自身の体調を崩されていて、その中で私たち学生のためにかなり無理をされていた。
仕方がない。もとのままで出すか。
印刷・簡易製本に、超特急で持ち込む。
一度家に帰ると、先生から返信が来ていた。「OK、ただしもうこれ以上は直さないでね!!!」
慌てて該当ページの差し替え原稿を作り、製本屋に舞い戻る。

こうして私は、やっぱりぎりぎり締切当日の朝、卒論を無事に提出した。
(実はこのあとさらに、表紙と、本文1ページ目に単純ミスを発見し、同日午後もう1回差し替えた上に、あとから訂正シールまで貼るはめになった・・・かっこわる・・・)

最後の最後に直したこと。
1585年に天正少年使節団がヴェネツィア共和国に残した着物は、こう記録が残っている:
1) 白いタフタでできた、長く幅広いズボン
2) 鳥や花、植物が多色で描かれた中着
3) ターコイズ・ブルーや黄色で模様の描かれた、浮き織の錦の短い上着
4) タフタでできた半袖の上着、赤で裏打ちされ、表は多彩に模様が入ったもの
これらは、1773年までは確かにパラッツォ・ドゥカーレにあった。

18世紀ヴェネツィアの画家、グレーヴェンブロクによる、私家版ヴェネツィア図鑑に登場する「日本の若者」と、我々が名前を知ることのできない誰かが、メディチ家所蔵の彩色された「古今東西世界の服装」。
彼らの服装は、われわれの認識する「日本の服装」からは程遠い。だが、その色は、パラッツォ・ドゥカーレ所蔵品の記録と、ほぼ一致している。
グレーヴェンブロクの図鑑完成が1754年。メディチの水彩は1765年以前。
少なくともやはり、ヴェネツィアにいたグレーヴェングロクは、パラッツォ・ドゥカーレで「本物」の着物を目にしたのではないか。
唯一、上着の色「赤」が表でなく裏打ちなのが気になるところだが、まさかマネキンに着せてあったはずもない。畳んでおいてあったものが、ほぼ200年の時を経て、特に表地が元の色がわからないほど退色のか、あるいは、それを恐れて、あえて裏を向けて畳んであったのか?
ほんとのとこは、わからない。
*****

指導教官のほかにも、多くの関係者の指導、支援、協力をいただいた。
ヴェネツィア大学日本語学科のA.B教授、ヴェネツィア貯蓄銀行図書館のP.V.教授。ヴァチカン美術館美術担当者G.C.さん、ヴィチェンツァ市立美術館長Aさん。
ローマ日本文化会館のA.S.さん、服飾史研究家のN.K.さん。
パラッツォ・モチェニーゴ博物館および図書館館長のC.S.さん。
そして、副指導官のS.M.教授ほか、大学在学中これまでお世話になったすべての先生方に、改めて感謝の意を表明しつつ、とりあえずこの連載もここで一区切りとしたい。

ここまでおつきあいいただいて、ありがとうございました。

23 marzo 2009

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by fumieve | 2009-03-24 08:45 | 卒論物語

イタリアの見た日本人16・みたび、「日本の若者」

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(このシリーズは、2007年7月に卒業した際の卒業論文「16-18世紀の西洋図像における日本の服装」を、研究・調査途中のつまづき・つぶやきなどを交えつつ、日本語でまとめたものです。)

イタリアの見た日本人:これまでのお話
15・幻のピエトロ・リッキ
14・「日本の若者」、ふたたび
13・鎖国
12・常長の服装
11・おさらい:日本の男子の服装の歴史
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

この卒論は、16世紀末に、ヴェネツィアで発行された「世界の古今の服装」という本に登場した、「日本の若者」の挿絵から出発した。この絵について、実はもう1つ、付けくわえておきたいことがある。
貴覯本とはいえ、印刷・出版され、広く普及した書物だから、今でも、この本を所有する図書館やコレクターはいくつも存在する。
だが、フィレンツェ国立図書館の保存する1冊は、ほかと大きく異なっている。なぜなら、中の挿絵すべてに、水彩で色がつけられているから。
誰がいつ、何のために色をつけたのかは、わかっていない。木版の挿絵に、ちょうどぬり絵のように誰かが色をぬったらしい。わかっているのは、かつてはメディチ家の所蔵品だったこと、そして、その判の分析から、色を塗ったのは1765年より前だということ。

この1冊については、私は残念ながら現物を見ていない。しかし、すばらしいことになんと、その一部が、加藤なおみさんの翻訳により、挿絵とともに「西洋ルネッサンスのファッションと生活」(柏書房、2004年)として日本語で出版されている。
原書より立派なくらいの、豪華な装丁に包まれたその本は、とくに代表的と思われる絵についてはカラー版も掲載されており、もちろん「日本の若者」もいる。

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何度も何度も、みあきるほど見た「日本の若者」も、色がつくとまた新鮮だ。
あえて立体感を出すような、芸の細かい色つけにまず感心する。面白いのは、わざわざ頭、帽子から下の部分に、金色でくるくるの巻き毛が描きくわえてあること。ただでさえ、日本の若者というには???・・・だったのに、これで完全に「日本の若者」でなくなっている!
長い上衣は真紅。ご丁寧に金色でつや出しされていて、いかにもヴェネツィアの赤ビロードのように見える。縁飾りも金色。左手では、この上衣のすそをめくって、裏を見せているように見え、その裏も金色。
ベルトや帯の類がなく、中に着ているものは上から下まで、長い一続きのものに見える。白地に、花や鳥模様が赤、草や幾何学模様のところが金で塗り分けられている。
足元は全体に金色がかけられている。

これって、何かに似ていないだろうか?
・・・そう、前々回に紹介した、18世紀ヴェネツィアの画家、グレーヴェンブロクによる、私家版ヴェネツィア図鑑の「日本の若者」。イエズス会神父が付けくわえられているものの、挿絵の絵そのものは、ヴェチェッリオの写しだから、全く同じで当たり前。
だが、不思議なことに、色が、フィレンツェのカラー版とほとんど一緒だ。しいていえば、中の模様の生地の地がこちらでは黄色っぽくなっているが、これは金色の代わりに、黄色の絵の具で補ったかのように見える。
グレーヴェンブロクは完成1754年。フィレンツェの水彩は1765年以前。
どちらかが、どちらかを参考にして彩色した可能性も考えられる。
あるいは、まだわれわれの前に明らかになっていない、彼らにとって共通の「モデル」があったのだろうか?
(続)

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11 dicembre 2008
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by fumieve | 2008-12-12 06:38 | 卒論物語

イタリアの見た日本人15・幻のピエトロ・リッキ


イタリアの見た日本人:これまでのお話
14・「日本の若者」、ふたたび
13・鎖国
12・常長の服装
11・おさらい:日本の男子の服装の歴史
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

ムラーノ島や、空港へ向かう水上バスの停留所、フォンダメンテ・ノーヴェ(Fondamente Nove)。そろそろ収束に向かうべき卒論が、あれこれバラバラのままちっともまとまらず、途方にくれていたころ、図書館通いの合間に何度か、そのファンダメンテ・ノーヴェ近くのジェズイーティ教会(Chiesa dei Gesuiti、イエズス会教会)に行って、その前の広場のベンチに座って、しばらくぼーっとしていたことが何度かあった。

ヴェネツィアの画家、ジョヴァンニ・グレーヴェンブロクは、1754年に上梓したその著書、私家版ヴェネツィア図鑑ともいえる「18世紀、ヴェネツィアのほぼすべての世代の服装」の中で、「その記念すべき(日本人の若者の)様子は、ピエトロ・リッキにより絵の中に描かれ、イエズス会士たちによって保存されてきた」と明言している。

では、そのピエトロ・リッキとは誰なのか?
1606年、現トスカーナ州ルッカ生まれ、1675年、ウディネにて没。まず、その時点で、1585年に来伊した少年使節団のことは、肖像画を描くどころかそのときにまだ生まれてもいない。もっとも、当時は、見てもいない人の肖像画を描くことは、別に珍しいことではないから、その辺は気にしない。
が、なにしろ、まったく手がかりがない。
ルッカ出身のこの画家は、仕事のチャンスを求めて、当時まだまだ大国の1つだったヴェネツィア共和国にやってくる。正確な年月はわかっていないが、だいたい1650年代前半には、ヴェネト内で仕事を始めていると推定されている。
実際、彼の代表作と言われる作品が、いくつかヴェネツィアに残っている。
カステッロ地区のサン・ピエトロ教会、同、サン・ジュゼッペ教会。それから、アルメニア・サン・ラッザロ教会にジテッレ教会。一般見学できるところ、できないところ、どれもタイトルを見る限り、完全に宗教画で、少年使節団が登場しそうなものは1つもない。
そして、肝心のイエズス会はどうかというと、確かにイエズス会修道院内、食堂その他にリッキが絵を描いている!当時の記録でそのタイトル(内容)も明かになっているのだが、残念ながらこれは、ヴェネツィア共和国崩壊後、一旦は公立学校(?)として使用されたあと、1807年には軍に接収。リッキの絵は完全に消滅した、とされている。

窓もふさがれ、「軍用施設」の張り紙の張った元・修道院は、今や取りつくしまもない。

ピエトロ・リッキについては、比較的最近、1996年に全作品のカタログが出版されている。この部分は、ほとんどそのカタログの内容を参照しているのだが、ともかく、不思議なことにというか、困ったことにというか、カタログの中に、「少年使節団の絵」の文言が、全く存在しない。
それはごもっともで、当時の、主な美術品目録などを見ても、ピエトロ・リッキの作品の、どこをどう探しても、「日本人」の絵に関する記述はない。

この卒論の副主査をお願いしていた教授が、ほんとうに偶然、幸運なことにこのピエトロ・リッキについてもいくつか論文を書いたりしていたので、相談に行ったところ、やはり「とりあえず、その件については、見たことも聞いたこともない」。
そして、「ところで、ティントレットの絵は見つかった?」・・・このブログ、第5回「ヴェネツィアが失くしたもの」で紹介した、ティントレットが描いたとされる伊東マンショの肖像画のこと。万が一見つかったら、日本の歴史としても、ヴェネツィア美術史としても、それこそ世紀の大発見。そんなものを探してたら、こちら一生かかっても卒業できやしない。冗談はよしこ先生・・・となぜか古いギャグが頭をかすめる。
半分は冗談だが、半分は本気で言っているらしい教授の、彼なりの推察は次の通り。
ヴェネツィアに来て、ヴェネツィアの前世紀の偉大な画家たちの作品を熱心に研究したピエトロ・リッキは、とくにティントレットの深い研究者であった。ティントレットの残した伊藤マンショの肖像画を、どこかで目にする機会のあった彼は、それを模倣なりしたのではないか、と。

遠い日本からの使者をもたらしたのは、自分たちの功績であると誇るイエズス会が、先にそれを依頼したのか、もしくはリッキの絵を見て所望したのかは不明だが、ともかく、その絵は、イエズス会の手に渡り、そこで少なくとも1世紀の間は保管されたのだろう。
私家版ヴェネツィア図鑑のために、公共のみならず私有の所蔵品なども目に触れる特権に預かったとされるグレーヴェンブロクが、そのピエトロ・リッキの絵を見る機会があったとしても、不思議ではない。

ああ、もうそうそろ、この卒論もいい加減終わりにしたい・・・。

続→16・みたび、「日本の若者」

9 dicembre 2008
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by fumieve | 2008-12-10 07:10 | 卒論物語

オリエンタリア・パルテノペア 第7号

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Orientalia Parthenopea
VII

人生ってなかなか、思ってるようにはいかない。

そろそろ届くはず、と思ってからすでに数か月が経ち、問い合わせをしなければ、しなければ、と思いつつ、イタリア語でメールを書くのがついつい面倒で、のびのびになっていた。忘れたころに、1つ、封筒が届いた。

Orientalia Parthenopea(オリエンタリア・パルテノペア)、直訳すると、ナポリ・オリエント・イタリア協会の会報誌、第7号に、ここで紹介し続けている卒業論文「16-18世紀の西洋図像における日本の服装」の要約が掲載された。
こういった会が、イタリアと東方に関わる論文を募集している、その中でも特に、広く若い研究者に門戸を開くため、テーマに沿った卒業論文を集め、シリーズで発行するつもりらしいので、ぜひ応募してみるように、と指導教官に勧められるがままに、とりあえず卒論を送ったのが今年の初め(だっただろうか?あるいは去年の今頃だったかもしれない)。
確か翌々日、それをとりあえず受け取ったというメールが、ともかくイタリアとは思えぬ速さであり、しばらくして、これも卒論シリーズに入れたいが、とりあえず、次の会報誌に載せる、要約を出してくれ、と連絡があった。

要約・・・。日本語ならカンタンなことだが、それをまたイタリア語で書くのは正直大変。どうにかこうにか、再び指導教官の手を煩わせて、締切ぎりぎりに提出したのが3月末。
6月の発行、と当初は聞いていたが、いつのまにか9月中、になり、11月に「できた」と連絡があり・・・今日、12月3日、ようやく届いた。
読み返しや校正など苦手なタチで、ましてやイタリア語なのでまだ全く目を通していないが、とりあえず自分の書いたものが、自分でPCで打って印刷したのと違うフォーマットで、冊子になっているのはやはり感慨深いものがある。図版も、白黒ながら無理をお願いして、6枚も入れていただいた。

日本語では、いつか何か書いたものが活字になったらうれしい、とは思っていたが、まさかイタリア語でそれが起こるとは全く考えてもいなかった。
しかも、学会誌、なんて、一生縁のないものと思っていたのに、ほんものの学者さんたちの間にはさまって出てしまって・・・。
ご尽力いただいた、関係各位に深く深く、感謝するのみ・・・。

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3 dic 2008
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by fumieve | 2008-12-04 08:07 | 卒論物語

イタリアの見た日本人14・「日本の若者」、ふたたび


イタリアの見た日本人:これまでのお話
13・鎖国
12・常長の服装
11・おさらい:日本の男子の服装の歴史
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

1754年、ヴェネツィア在住の画家、ジョヴァンニ・グレーヴェンブロクは、1冊の本を仕上げた。ヴェネツィアの貴族で、簡単に言うと貨幣や書籍などのコレクターであったピエトロ・グラデニーゴの依頼による「18世紀、ヴェネツィアのほぼすべての世代の服装」と題されたこの本は、1つ1つのタイトルごとに、見開きで左ページにイラスト、右ページにその解説があるところは、このシリーズの最初に「日本の若者」で紹介した、チェーザレ・ヴィチェッリオの「世界の古今の服装」に似ている。
実際、テキストも挿絵も、ヴィチェッリオからそのまま写していることも多い。
原本ともいえる、ヴィチェッリオと大きく違うのは、ヴィチェッリオができるだけ幅広く、「世界の」服装を扱っているのに対し、グレーヴェンブロクは「ヴェネツィア」にこだわっていること、ついでに、服装だけでなくてヴェネツィアの日常生活やお祭りの様子なども扱っていること。
もう1つの大きな特徴は、これは印刷した本ではなくて、手書きの、つまり依頼主1人のために編集されたものだということ。
テキスト部分はインクによる筆記体、そしてイラストの部分は、なんとそれぞれ水彩で色がつけてある。

この本の中に、再び「日本の若者」が登場する。
ヴェチェッリオの「世界の服装」と違い、「ヴェネツィアの服装」だから、外国人の登場は極めて少なく、せいぜい各国の「代表者」として大使の服装が載っているくらい。
だが、「日本の若者」はその中ではなく、ヴェネツィアの史実や、歴史上の人物を扱ったシリーズの中に入っている。

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ヴェチェッリオの「日本の若者」とまず第1に目につく違いは、イエズス会神父と一緒に登場していること。若者自体の格好は、ポーズからしてヴェチェッリオの「若者」の、ほぼそのままだ。
テキストの方に目を移すと、
「その昔、(ヴェネツィア)共和国の長にニコロ・ダ・ポンテがついていたとき、このすばらしき町に、日本の貴公子たちがやってきた。そして、荘厳な入場でもって、すばらしいコレッジョに入った。」とある。つまり、史実の簡潔な説明だ。
と、そのあと、
「その記念すべき様子は、ピエトロ・リッキにより絵の中に描かれ、イエズス会士たちによって保存されてきた」。
・・・なぬ~~~!?!?!?
続いて、その少年使節団のエピソード、そして、直接関係のない中国のエピソードを挿入したあと、「若者」の服装の説明に入る。
「この国では胸当てと、絹製の幅広いズボンを着用する。その生地は白く美しく、まるで紙のようであり、葉や鳥の模様で彩られている。織りの凝ったビロードの上着をはおり、刀と懐剣を差している。これらは(パラッツォ・ドゥカーレの)10人の評議員の間の武器室に保管されている。」
使節団が、ヴェネツィア共和国にその装束一式を贈っていること(そしてそれが行方不明になっていること)は、以前、このシリーズの第5回・ヴェネツィアが失くしたもの(0424)、で紹介した通り。
1754年に、グレーヴェンブロクがこの本を編集したときには、まだパラッツォ・ドゥカーレにあった、ということに違いなく、それは1773年の時点では存在したとする記録とも一致する。

それにしても、ようやく18世紀にたどり着いたと思ったら、また少年使節団に舞い戻ってしまった。
彼らの絵を描いた、とされるピエトロ・リッキについて、次回は考察を述べたいと思う。

続 15・幻のピエトロ・リッキ

25 novembre 2008
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by fumieve | 2008-11-26 08:19 | 卒論物語

イタリアの見た日本人13・鎖国

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イタリアの見た日本人 これまでのお話

12・常長の服装
11・おさらい:日本の男子の服装の歴史
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

2年前の11月。アックア・アルタぎみの朝、長靴で、某銀行の文化財責任者を訪ねた。

この卒論の最初の目的は、ヨーロッパの中で、日本人の「服装」が具体的にどのように描かれているかを、歴史的に順を追って並べて、考察を加えることだった。もとより、研究者になるつもりは全くなく(もちろん期待もされていないし)、いくらイタリア美術史を専攻したからといって、ほかの学生と同じことをやってとても立ちうちできるレベルではない。ただ、どうせなら私しかできないことをやろうと、指導教授と話し合って選んでみたテーマだった。
・・・ところが、始めたとたんに、あっさりとつまづいた。
服飾史の世界では有名な、16世紀末にヴェネツィアで発行された「世界の服装」に登場した「日本の若者」が全く日本の服装っぽくなかったことは、初回で紹介した通り。
そして、実質すぐそのあと、鎖国になってしまった日本の情報はあまりにも少なく、17,18世紀・・・と、やはりヨーロッパで代表的な服飾本からは全く姿を消してしまう。・・・いきなり挫折・・・。

指導教授の推薦で、この責任者を訪ねてみることになった。同銀行には希少本のコレクションもあり、何より、博学者である彼に相談すれば何かいいアイディアがあるのではないか、と。
その博学氏も、長靴で登場した。「履き替えてくるから、ここでちょっと待ってて」といって通されたのは、昔の、貴族やら商人やら、お金持ちの図書サロンそのもの。壁中にいつの時代のものだろう、それ自体が博物館ものの美しい本棚が並び、その中には年代ものの本がびっしり。部屋の真ん中には、図書室らしく大きなテーブルと、それを囲む、これまた立派な椅子が8客。
・・・その中に、長靴でたたずむ私・・・。
すっかり気おくれしている私の(そして、まだまだ始めたばかりであやふやな)話に、ふむふむと心よく耳を傾け、そしてなるほど、それならこのあたりかな、と、おもむろにささっといくつかの本を引き出す。ともかく「絵」を探しています、というと、では各時代の百科事典だね、その中で日本を扱っているのは、こことこれと・・・このシリーズならこの巻、と。
無知で不慣れな私が、図書館で調べようものなら、一生とは言わないが何日もかかりそうなこと、ものの数分のうちにすべて目の前に。そして、「午前中いっぱいは、好きなだけここで読んでていいから。あ、もちろんコピーしたければするけど。」そして、その数百年前の本を何冊も私の目の前に残して、「あ、ここはコピーがいるよね。ちょっと僕、コピーしてくるから、君はここでほかのもの読んでて」。
いや、あの、せめてコピーくらい自分でやります・・・。

17-18世紀。日本は鎖国を決め込んで、外国との接触を断っていたが、一度「発見」された日本は西洋世界から決して忘れ去られてはいなかった。百科事典には「日本」の項があり、世界地図には(それがしばしばへんてこりんな形だったにせよ)日本が描き込まれていた。
ただしやはり、情報は少なかった。地理について、宗教や社会について、食べ物や習慣についての解説は、16世紀にイエズス会士たちが日本から書き送った内容やそれをまとめたものが、数百年を経てほぼそのまま使われているようだった。

絵は、ほとんどなかった。唯一、日本に関していくつかの挿絵(版画)がついていたのは、T. Salmonによる英国の世界百科事典。ちなみに私が参照したのは、1734年ヴェネツィアで出版されたイタリア語版。
長崎の出島の地図などもついていて、それはそれで興味深いのだが、ともかく私の関心の中心は、日本人の男女の姿が描かれたもの。注に「1.日本人男性、2.日本人女性・・・」とあるから、日本人にあることは間違いないのだが、ぱっと見はかなり中国っぽい。
ただし、男性女性とも髪型はほぼ日本的。そして、それぞれ右手には扇、男性は左手に印籠のようなものを持っている。

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「彼らはブラウス(下着がわりのもの)を用いず、非常に長く幅の広い服を着ている。
とくに女性のそれは地面に届くほどの長さで、それを長いベルト(帯)で締めている。・・・男性と女性の服装は基本的にはほとんど変わらない。ただし、女性は場合によっては何枚か重ね着していることがある。それは絹でできていて、上着はとくに袖が大きい。・・・天皇から庶民まで、その(形の)差は少ない。男女とも広い帯をしているが、若い娘は後ろで、既婚女性は前で締めている。そして琥珀や珊瑚そのほかの石で飾られたバッグ、または薬草などを入れるための小さな箱(印籠のこと)を持っている。」

→続14・「日本の若者」、ふたたび
,
6 novembre 2008
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by fumieve | 2008-11-07 07:54 | 卒論物語

イタリアの見た日本人12・常長の衣装

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ヴェネツィアですっかり色づいた蔦やカエデを見ながら、この話題がまだ終わっていなかったことを思い出していた。

イタリアの見た日本人:これまでのお話
11・おさらい:日本の男子の服装の歴史
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

支倉常長の着物について。
もう一度、
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ボルゲーゼ館の全身立像と、












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クイリナーレ・現大統領官邸の半身像の2つの絵を見比べる。










まず、ともかく派手な着物だ、と言える。
上半身に1枚はおっているのは、形からして陣羽織だろうか。ただし、陣羽織は一般にその実用のために、派手好みのものであっても毛織物などが主流だが、ここでは中に見える小袖、及び袴と全く同じ素材、絹織物であるように見える。
そして何より気になるのは、その上衣に、どちらの絵にもはっきり描かれている、鹿の模様。
西洋ではこの時代、肖像画の中に動物が描かれているとすれば、それは家の紋章か、あるいは動物自体の持つシンボル(たとえば犬なら貞淑とか)を意味として盛り込んでいる場合が多い。
そこで日本の文様事典など、イタリアで参照できる範囲で調べると、「鹿」は古来より日本で愛されてきた動物の1つで、確かに「神の使い」的な意味もあるらしい。が、それ以上に、特にモチーフとして使われる場合は通常、紅葉、萩、またはすすきなどを伴って、必ず「秋」を表す、とある。花札の絵柄を思い出すまでもなく、そう言われれば、そうだ。
で、この常長氏の衣装はというと、小袖と袴にはお揃いの植物模様が全面を覆っている。残念ながら、紅葉でも萩でもない。笹・・・のように見えるが、すすき、と言われればそう見えなくもない。すすきを知らぬ人が描けば、こうなるのかもしれない。金糸の織りだろうか、刺繍だろうか、その黄金色に輝く細長い葉は、確かに秋の風情たっぷりだと言ってよい。
陣羽織の下からのぞく袖ぐちは、クイリナーレのフレスコ画では完全に西洋風の唐草模様になっているが、ボルゲーゼの油彩のほうでは、あじさいのように4弁の小さな花が散りばめられている。
一方、陣羽織の裾の深いジグザグ模様は、陣羽織というカテゴリーにおいては比較的ポピュラーなデザインだったのだろうか。仙台市立博物館に、時代は下るがやはり伊達家所有のものだったとされる陣羽織にも似たような模様が見られる。

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能装束のように派手な着物一式、完全に推察だが、これはおそらく主人である伊達政宗が自ら選んだものなのではないだろうか。使節は役者ではない。だが、外交の駆け引きにはしばしば役者のようにふるまうことも必要だ。遠来の日本人がどうせ見世物になることはわかっている。それならばいっそ、着物も一段と派手なもので、びっくりさせてやろう、と。「伊達男」の語源となった政宗のこと、そのくらいの気持ちがあっても不思議ではない。

ローマに近い、チヴィタヴェッキアに常長一行が上陸したのは、1615年10月20日のこと。25日に突然のローマ法王シスト5世の非公式謁見、29日には歓迎の記念行列が催された。11月3日にようやく公式謁見となるが、「その日の夕方、日本人一行は全員、黒づくめの衣装でヴァチカンに到着、そこで常長は自分の着替えの入った長持を持ってこさせた。」という。そして控えの間で、その色鮮やかな衣装、王や諸侯に謁見する際の着物に着替えた、と。

気になったのは、法王に謁見したのが、ちょうど秋だったということ。
第一正装として用意したのが、鹿の模様の秋の着物だったのは、偶然なのだろうか?
それとも、四季それぞれとは言わぬまでも、春と秋の2パターンくらいは用意していたのだろうか?・・・これは全く調べていないので何ともいえないが、だとしたら面白い。

結局、伊達の望んだ通商交渉は成立せず、失意のうちに常長が帰国したのはよく知られた通り。帰国後の彼を待ち受けていたのは、キリスト教禁教で、彼の持ちかえった資料や法王その他からの贈り物は、そのまま幕府に召しあげられ誰の目にも触れることなく封印された。

それでも、少なくとも表向きは欧州で大歓迎を受けた常長一行は、30年前同様、再び欧州各地で「日本」に対する深い関心を呼んだことは変わりはない。当時のローマの歴史家、S.アマートは「奥州の歴史」という本をシスト5世に捧げている。この原本にはないようなのだが、そのドイツ語訳版には、常長の肖像が1枚ついている。
残念ながら、鹿模様は描き込まれていないが、羽織・袴のその形は、まあまあよく描けているのではないだろうか?

(続)13・鎖国


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30 ottobre 2008
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by fumieve | 2008-10-31 07:30 | 卒論物語

イタリアの見た日本人11・おさらい:日本の男子の服装の歴史



イタリアの見た日本人:これまでのお話
10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち
10・大統領官邸の支倉常長
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

またちょっと話が元に戻ってしまうが、天正少年使節団の服装について調べていたときに、ふと疑問に浮かんだのは、では彼らは一体、ほんとうは何を着ていたのか?ということ。
絵が存在するのはみな、「和服」には似てもにつかない、不思議な服装のものばかり。ほんとうはこういうものを着ていたはずなんですよ、というのを示そうと思い、こちらの図書館である限りの日本の服飾史の本を探すも、いまひとつ。イタリア語でなくても、フランス語かもしくは英語の文献であれば、そのまま引用できるのに、と皮算用していたのにあえなく計画倒れ。
急遽、日本から取り寄せたのが、「服装の歴史」(高田倭男・著、中公文庫)。各時代の服装の特徴や構成、またTPOなど、初心者にもわかりやすくコンパクトに説明されていて、とてもいい本だったのだが、個人的には、これを読んだらもっと頭を抱えてしまった。
つまり、16世紀後半、地方の武士の家の若者たちは、何をもって礼装としていたのか?

同書から、簡単に日本の男子の服装について、かいつまんで歴史をたどってみる。

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まず、政治も文化も、中国(唐)からの影響を直接受けていた奈良時代までと異なり、日本固有の服装が発達・定着するのは平安時代から。宮廷における男子の礼装として、「束帯(そくたい)」が規定された。これは驚くべきことに、19世紀まで貴族階級の礼装であり続ける。








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束帯が、優美さを最大限に表現したものなら、鎌倉時代に武士階級で定着したのは、よりシンプルでかつ強さを表現したもの。糊を貼って生地を固くした「強装束(こわしょうぞく)」、またはもともと狩のための装束として発展した「狩衣(かりぎぬ)」が、この階級の礼装として使われるようになる。







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そして、簡易服を意味し、前の開いた「直垂(ひたたれ)」、これが袴とともに、長く武士階級の礼装となっていく。絹のみならず、麻地も用いられた。似たような形で、「大紋(だいもん)」や「素襖(すおう)」もやはり武士階級の服装となるが、これらは麻地がふつう。







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もともとは内着であった「小袖(こそで)」が、室町時代になると独立した外着として発展する。それと同時に生まれたのが、「肩衣(かたい)」で、袖なしの上着といったところ。
袴とともに着用し、江戸時代にはそれが発展して、「裃(かみしも)」と呼ばれるようになる。








少年使節団が「和服」でローマ法王に謁見した、それはきっと「直垂」姿だったろう、と、最初勝手に想像していた。が、この本の示す通り、少年たちがイタリアへ向けて出国した1582年は、日本の男子の服装の過渡期にあったといってよい。

1番手っ取り早く、当時の肖像画を見ても、たとえば織田信長は、
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よく知られる肖像画(豊田市、長国寺)は肩衣姿、









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だが、束帯のもの(神戸市立博物館)もあり、こちらはよりフォーマルに見える。








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豊臣秀吉は直衣(のうし)姿で、これは束帯に準じる貴族階級の礼装。(岐阜歴史博物館)









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そして、徳川家康は束帯(堺市立博物館)、という具合。










使節団についての、日本側の資料をあたれば、ぱっとどこかに明記されているのかもしれない。が、こちらの資料ではすべて、「かの国の服装」とあるだけで、それが、束帯なのか肩衣なのか、形の描写から推察するほかない。

・・・これを書きながら、今までの項をおさらいしていたら、重要なエピソードを紹介するのを忘れていたのに気がついた。

2005年、ローマのボンコンパーニ・ルドヴィージ家で、一枚の絵が発見された。ボンコンパーニ・ルドヴィージ家は、少年使節団を謁見したグレゴリオ13世の直系の末裔。その由緒正しき家のお屋敷の本棚で、本の間にはさまっていたのは、「ドン・マンショ、・・・1585」と記された、1枚のデッサン。油彩、またはテンペラなど本作のための下書きと思われる。

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完成作でないのは残念だが、写真で見る限り、精密で正確なデザインで、保存状態もかなりよいようだ。グレゴリオ13世が、自分のために「個人的に」描かせたものだったのだろうか?
真偽のほどはともかく、これがもし本物、またそうでなても、「本物のデッサン」からうつしたものであるとすると、ひとつ疑問が解決することになる。
当時のイタリアの礼儀規定にのっとり、首を出さないようスペイン風襟をつけているものの、全体は和装をしている。上衣は肩の部分で切れてひだのようになっており、肩衣のように見える。
これは実は、ボローニャの本の挿絵にも通じるものがあるから、少年たちの服装は、肩衣と袴だったと言ってよいだろう。

(続)12・常長の服装

7 ago 2008
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by fumieve | 2008-08-08 07:11 | 卒論物語

イタリアの見た日本人10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち

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イタリアの見た日本人:前回のお話
10・大統領官邸の支倉常長

前回の写真が好評(!?)だったのに気を良くして、せっかくなので、もう少し補足してみようと思う。

以前紹介した通り、くだんの部屋、現「大統領護衛騎馬憲兵の間」(Sala dei Corazzieri)は長い見学コースのしょっぱなに当たるので、見逃す心配はない。
この部屋は1615年、 ボルゲーゼ家出身の法王、パオロ5世の依頼を受けて、「王宮の間」として建築家カルロ・マデルノが設計した。
入ると、左側にいくつも開いた窓から光が差し込んでいて、まずとても明るい。見るからにゴーカな部屋。天井は金塗りの彫りの深い彫刻装飾、床は色大理石。壁上半分は4方とも色鮮やかなフレスコ画に覆われている。下半分は、扉部分の間の壁を、タペストリーが埋めている。

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フレスコ部分、そのさらに上半分を占めるのが、1616年、アゴステイーノ・タッシ、ジョヴァンニ・ランフランコ、カルロ・サラチェーニらによる、外国人使節たちのだまし絵。








入口と同じ側の壁、向って左側から見ると、1つめのバルコニーに姿を現すのは、ペルシアの使節団。

2つめが、Emanuele Ne Vundaに率いられた、コンゴの使節。
その隣が日本の常長一行、

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最後が、再びペルシアからで、中にAli-qoli Begの姿が見える。








窓のある側の壁は、

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Robert Shirleyに率いられたペルシア、








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アフリカの使節、










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Mussolから来た、ネストリウス派使節団と東方教会の修道院長Adamo、









そして最後はアルメニア商人で、彼らもまたペルシアから来たと考えられている。ペルシアの使いが多いのは、中東における対オスマントルコという政治的理由によるものらしい。

400年も前のフレスコ画だが、幸運なことに、ほとんど大きな手を加えられることなしに、色鮮やかにきれいな姿を残している。
1人1人の顔が、どこまで本人たちに似ていたのかは、それぞれの肖像画などを探し、比較しないとわからないだろう。だが、お国別、民族別の違いは、その顔つき、風貌、衣装、と、かなり繊細に描きわけられているのは見ての通り。
わけても、日本使節団のバルコニーが最も丁寧に、豪華に描かれているように見えるのは、完全にひいき目だろうか?

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が、バルコニーにかかる金糸入りの深紅のビロードは、明らかに最も美しい。さらに、裾の翻ったところからちらりと、空色のサテン地で裏打ちされているのが見えるが、これは、8つのバルコニーでも、ここだけ。

そして何より、常長の着物の文様の細かさには、目を見張るばかり。




なお、館内は一切撮影禁止のため、こちら掲載の写真はすべて、
L. Del Buono (a cura di), Il Palazzo del QUirinale. La storia, le sale e le le colelzioni, FMR, Bologna, 2006
L. Godart (editto da), Il Quirinale. Rivista d’Arte e Storia. Anno primo, numero due., FMR, Bologna, 2005
から引用した。8つの使節団すべての写真がないのが残念・・・なお、今回は、内容も基本的にその2冊から抜粋・要約した。
(・・・というわけで、恐縮ですが、それぞれがどこの誰なのか、はあまり突っ込まないでください。)

(続)11・おさらい:日本の男子の服装の歴史

24 luglio 2008
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by fumieve | 2008-07-28 06:26 | 卒論物語

イタリアの見た日本人10・大統領官邸の支倉常長

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イタリアの見た日本人:これまでのお話
9・ローマ再び~支倉常長像
8・「アジア」の姿
7・番外編:ない袖は振れぬ?2
6・番外編:ない袖は振れぬ?
5・ヴェネツィアが失くしたもの
4・ヴィチェンツァ
3・ローマの天正少年使節団
2・天正少年使節団
1・「日本の若者」

ローマの「七つの丘」の1つ、クイリナーレの丘は、ローマの市街を一望できる立地にあるばかりか、もともとクイリナーレ(Quirinale)の名自体、地元であがめられていた神Quirinusから来ている通り、歴史的にも由緒正しい土地だという。
その地に、16世紀初め、枢機卿オリヴィエーロ・カラファがここに私邸を建設する。
館の住民は、ファルネーゼ家、デステ家と変わっていくが、夏の避暑地として、何度か招きを受けていたローマ法王グレゴリオ13世(1572-85)が、自らの負担で屋敷の増改築に手をつける。
グレゴリオ13世の死後、後を継いだシスト5世は、ローマ市内の大改革工事でも知られるが、このクイリナーレも例外ではなかった。同屋敷を買い取り、教皇宮殿にふさわしくあるよう、大々的に改装を行う。
以後、歴代法王が改装・改築を行っていく。それぞれの内容については触れないが、ここで注目すべきは、パオロ5世(1605-21)。パオロ5世もまた、その在任中にクイリナーレの大規模な改築を行った。
ローマ・カトリック教会は、この法王パオロ5世の治世に、世界勢力図は、史上最大に達したという。
支倉常長がローマで謁見したパオロ5世は、その1年後の1616年、世界各国からやってくる、大使や使節を迎えるための謁見の間として、「王宮の間」(Sala Regia)を作らせる。その細長い「王宮の間」の、長い側の壁2面いっぱいに、その外国からの大使たちの姿を描かせた。ターバンを巻いた人、アフリカの黒人、中国人、そして、日本から来た、支倉常長一行。それぞれのグループに分かれた彼らは、だまし絵のバルコニーからこちらを、「王宮の間」にいる者たちを見降ろしている。飛ぶ鳥を落とす勢いの法王との謁見の場だから、下にいる本物の人間たちは、かしこまって、緊張した面持ちでいたに違いない。上からのぞいているほうは、身を乗り出したり、おしゃべりをしたり、生き生きと人間らしさを見せている。

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日本人は、当時から「まじめ」な国民だと多くの記録に残っているが、もちろん彼らも例外ではなかっただろう。前列にいる常長は、向って右隣りにいるソテロ、日本から同行したフランチェスコ会修道士の話に熱心に聞き入っている。後ろに控える4人も、下での出来事よりも、ソテロの話に一生懸命ついていこうとしているように見える。

肝心の常長の服装は、上半身、それも半身しか見えない。が、これはボルゲーゼ館所蔵の立像の肖像画と同じ着物と見て、間違いはないだろう。袖から胸にかけての模様は、あの油彩よりもさらに細かくはっきり描かれている。
ソテロはもちろん修道服、あとの4人の服装はほとんど見えず、それだけに常長の着物が一段と際立っている。

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それにしても、何という偶然だろうか。
日本からの、たった2回の使節団については、欧州、イタリア、に膨大な記録や資料が残されているが、見てきたように、図像表現は極めて少ない。にも関わらず、その2回ともがローマでフレスコ画という形で記録され、今でもその姿をとどめている。先の少年使節団はヴァチカン内に、常長は元・法王居住地で現在の大統領官邸に。
どちらも、たまたま謁見した法王が、工事好き、建築好きでどんどん新しい建物をたてていたこと、そして、言ってみれば自らの力を誇示するために、「極東から馳せさんじて」やってきた彼らの、証拠写真を壁に焼き付けてしまおう、と思ったから。
そして、このクイリナーレ館がそもそも法王居住地となったきっかけは、少年たちが謁見した、グレゴリオ13世とシスト5世から発していたのもまた、偶然にしてはできすぎなくらいに思える。
どこかで、何かがつながっている。

「王宮の間」は、現在は「大統領護衛騎馬憲兵の間」(Sala dei Corazzieri)と呼ばれる。今でも、イタリア共和国レベルでの儀式などに使われているので、イタリア人にとっては、テレビのニュースなどで案外見慣れている風景かもしれない。
この「憲兵の間」を含めて、クイリナーレ館は、毎週日曜日の午前中は一般公開している。
www.fumiemve.exblog.jp/d2007-01-22
次回は、この常長の着物についていくつか考察をまとめてみたい。

(続)10+おまけ・大統領官邸の外国人使節たち

24 luglio 2008
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by fumieve | 2008-07-25 07:24 | 卒論物語