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ヴェネツィア ときどき イタリア

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アルフレッド・ブレンデル

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Alfred Brendel
Teatro la Fenice

MOZART Sonata in do minore KV 457
SCHUBERT Improvviso in fa minore op. post. 142 n. 1 (D 935 n,1)
Improvviso in si bemolle maggiore op. post. 142. n. 3 (D 935 n. 3)
BEETHOVEN Sonata n. 31 in la bemolle maggiore op. 110


今月はかなり音楽づいている。
少々贅沢ではあるのだけど、日本にいたときに、オペラ・バレエに開眼させてくれた友人がいつも言っているように、舞台ものは一期一会。これは、という機会はやはり多少無理をしてでも、なるべく逃さないようにしている。
現在の私の生活は、いろいろ不確かなことが多いので、1週間後の予定が決まらないこともしょっちゅうで、あまり早くからチケットを取ることはできない。だから、直前や当日になってから思いついて、うまく安いチケットを買うことができれば、それもやはり縁のうち。今回も、数日前に友人が「行く」というのを聞いて、便乗することに。ロッジョーネ(Loggione)といわれる、いわゆる天井桟敷の思いっきり端のほうの1列目で20ユーロ。
今日は、”Una vita nella musica- Arthur Rubinstein 2007” (2007年度A.Rubinstein「音楽に捧げた人生」賞、といったところだろうか)という賞の贈与とその記念のコンサートという催し。初めに、主催者がその説明に出てきたので、授与式が先に行われるのかと思ったら、Brendel氏は舞台に登場して、軽く頭を下げたかと思ったらピアノの椅子に座って、まだ拍手が鳴りやまないのも気にすることもなく、いきなりMozartに入っていった。
ちょっとびっくり。
こちらは何しろ、ほぼ頭上から見下ろしている感じで(こういうの、やはり演奏者によっては嫌だろうと察する)、残念ながら鍵盤と指先が見えない。だから余計に、いったいどうなっているのだろうと気になるのだが、ともかく音がやわらかくなめらかで耳に心地よい。
長い年月をかけてじっくり熟成した、深いワインのようだと思った。恵まれた才能や磨き上げたテクニックに、これまでの短くない人生、音楽内外のさまざまな経験が堆積して、微妙な香りと味わいを醸し出しているような。
特にシューベルトなどは実はとても難しい曲らしいのだが、そんなことは一切感じさせない。
音の緩急や強弱、高低の対比も、あまりにも自然で決して変にびっくりさせない。そして、これが同じ1台のピアノか、というくらい、曲ごとに、いやフレーズによって音色そのものが変化する。
どちらかというと「生真面目な」感じのベートーベンですら、彼の手にかかると、ほんとうに「美しい」音の流れになっていて、目をつむって聴いていたら、もしかして女性が演奏しているのではないかと思ってしまうくらいなのだが、やはり、うら若き女性ではなかなかこうはいかないのだろう。これこそは「力」と「経験」があって、それを制御してこそ完成された表現なのに違いない。
いかにも奇才・天才といった変わった風貌でもなく、ごく普通のおじいちゃんといった雰囲気で、普段はそこらへんで普通に朝ご飯などを食べていそうな感じがした。1931年生まれというから、なんと76歳。びっくりである。

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演奏終了後に、正副さまざまな賞の授与があり、それが今日の本来の趣旨であったのあろうけど、残念ながら興ざめの感がぬぐいきれなかった。この演奏を前にしては、決まりきった挨拶や記念品は無用だろう。

28 set 2007
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by fumieve | 2007-09-30 18:44 | 聞く・聴く

シニョール・ゴルドーニ

Signor Goldoni
Teatro La Fenice, Venezia

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ヴェネツィア、フェニーチェ劇場

ヴェネツィア生まれの喜劇作家、カルロ・ゴルドーニの生誕300周年を記念して、全く新しく創作されたオペラ。2幕の、もちろん喜劇である。
脚本は、ジャーナリストで最近は詩作も行っているというジャンルイージ・メレガ(Gianluigi Melega)。作曲はふだんは器楽曲の作曲を主にしているルカ・モスカ(Luca Mosca)。
安易に古典のレパートリーを繰り返すのでなく、新しい作品を発表することがいかに重要であるかを、フェニーチェ劇場は強調する。

この作品、いろいろな要素が混在・交錯する。
いきなり不協和音で始まる音楽は、いかにも現代音楽。そして、設定は、現代のヴェネツィアということらしいが、場面がカルネヴァーレ(カーニヴァル)だから皆の衣装は時代がかっている。おまけに最初の登場人物が、天使。ギターに、ティオルバなる古楽器が登場するかと思えば、オーケストラ・ボックスにはヤマハのキーボードまである。一方、舞台上では、モーツァルトの喜劇のような、アップテンポの軽い歌に、ベルカントも多用。イタリア喜劇コンメディア・デッラルテのアレッキーノ(道化)も登場することもあって、演技は全体にコンメディアを思わせる。

ただでさえ「ごった煮」感のあるこの作品をさらにややこしくしているのは、それが英語で歌われているということ。脚本・作曲の2人によると、音節が多く、言い回しも増長になりがちなイタリア語に対し、1音節・2音節の単語が多く、表現もストレートになりやすい英語のほうが、今回実現したかった音楽により合っているから。確かに音楽が全般的に落ち着きのない早いリズムで、歌もスタッカートぎみに進む。もともと、イタリア語の音楽的な音の流れが好きな私にとっては、だからこれはかなり不満。
そしてイタリア語字幕がついているのだが、喜劇はより、その大げさなジェスチャーなどが重要になってくるから、字幕を読みながらどこまで舞台を追えるのかが疑問。これも、すでに古典となっている既知の作品ならいざ知らず、まったくの初演だからなおさらである。まして、映画もすべて吹き替え、基本的に字幕に慣れてないイタリア人にとってはかなり難しいと思われる。
私は、字幕を読むのは最初から完全にあきらめ、舞台を見る(聞く)ことに専念していたが、白状すると歌・セリフはほとんど理解できなかった。実際のところでは英語がわかる人でも、これは結局ほとんどわからないのではないか?
「笑いを取る」というのが、実はいかに難しい芸であるか、ともかくこの作品は難解すぎてなかなか笑えなかったのだが、その中で文句なしに笑えたのは、巨大な植え込み。人が入っていてある場面で突然登場したのだが、出てきただけでなく回ったり踊ったり、かなりシュールであった。
衣装はまあまあ。ゴルドーニ、バッフォの衣装は、上着が薄く張りのあるオーガンジーのような素材でできていて、18世紀のスタイルながら軽い雰囲気が出ていてよかった。ただし、天使の張りぼての羽は×。
一方、ヴェネツィアのパラッツォ(お屋敷)、運河を現代風に解釈したセットがとてもよかった。2幕でほとんど変更なしで使っていたが、演技や演出とまったく無理がなく、非常に効果的だった。

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27 set 07
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by fumieve | 2007-09-28 18:31 | 聞く・聴く

どしゃぶり

Nubifragio

朝、いや、明け方からずっと、空からバケツをひっくり返したような激しい雨。
おそらくこの低気圧のせいもあるのだが、実は昨日、起きたときから頭痛がひどく、少々忙しかったから疲れが出たのだろう、と、夕べはいつもよりかなり早く寝たのだが、猛烈な雷で夜中に何度か目が覚めた。
特に夏から夏の終わりにかけて、ここでは時々こういう嵐というか雷雨がある。たいていは、晴れていると思ったら突然暴風とともに雷が鳴り出し、みるみるうちに大雨が降る。慌てて室内に避難したり、家にいるときは雨戸を閉めたり。で、数時間、早い時は数十分もするとまたからりと晴れ上がったり、文字通り「嵐」のようにやってきて、過ぎ去っていく、そんなことが多い。日本の夕立ちに似ているけど、これが夕方に限らず、夜中だったり、午前中だったりすることもある。
今年はそういえば、こんな嵐がいつもより多い気がする。
だから、夜中に何度か目が覚めたときも、慌ててひとつだけ開けておいた雨戸を閉めたり(真っ暗にしておくと朝起きられないので、ふだんはひとつ開けておく)、閉め忘れていた踊り場の窓を閉めたりしつつも、朝にはすっかり何事もなかったかのようになっているのだろうと思っていた。
ところが、朝になっても激しい雨が降り続いている上に、雷もまだ、ごろごろピカピカいってる。風も相当強くて、私の家の中で唯一少々サッシのあまい、バスルームの窓の隙間から水が吹き込んだらしく、気がついたら洗面台の下が水浸しになっていた。
今朝は、大学の事務局に行ったり郵便局に行ったり、と事務要件があったのだが、この天気の下では重要書類もすべて自分とともにぐちゃぐちゃに溶けてなくなってしまいそうだし、どうしても今日でなければならないものではないため、外出中止。(もっとも明日以降の予定が狂うのが困るわけだが)
そうしてお昼過ぎまで、この世の終わりかのように雨が降り続けていた。
夕方、友達に電話したら「だいじょうぶ?」というので何かと思ったら、今朝の雨で近郊各地で床上・床下浸水などの被害が出ているらしい。ヴェネツィア県・ヴェネツィア市は内陸側にも町があって、ニュースでは「ヴェネツィアで浸水」となるから、私も今頃溺れているかもしれない、と心配していただいたというわけ。幸いここでは午後2時ころに雨もやんで、私は一応用意した長靴でなく普通の靴に傘なしででかけたのだが・・・。
夜のTVニュースによると、今朝6時間で年間雨量の1/3が降り、メストレ、マルゲーラ(いずれもヴェネツィア市)では記録的な浸水被害になったとか。電気・ガスなどが不通になった地域もあり、明日は学校も全面的に休校だそう。
Nubifragio(ヌビフラージョ、豪雨、または災い・崩壊)という単語を覚えた。

26 set 07
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by fumieve | 2007-09-27 22:07 | ヴェネツィア

イチゴという名の・・・

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fragolino

イタリア語でいちごはフラゴラ(fragola)。だから、フラゴリーノ(fragolino)というと本来は、小さいイチゴ、とか、いちごちゃん、みたいな意味になる。野イチゴのようなもともと小さい種類のイチゴのことを総称して使うこともある。

この写真のぶどうは、この時期、イタリアでもおそらくこのあたりだけで見られるもので、その名も「フラゴリーノ」。
艶消しの、黒に近い濃い色の皮、中は透明~うすい緑、ジューシーでものすごく甘い。日本の「巨峰」に色と味は近いかも。だけど、これは粒がうんと小さくて、日本の種なしぶどうくらい。だけど、種は必ず、1つ2つ入っていて、その周りがちょっと酸っぱくて、アクセントになっている。イタリア人はふつう、ブドウをむかずにそのまま皮ごと食べるからか、ほかのブドウはたいてい皮が薄くて身に張り付いていて、むいて食べようと思うと苦労するが、このフラゴリーノはするり、とむける。
見た目も味も、どこからどうしても完全にブドウなのに、なぜまた「小いちご」なんて名前がついてしまっているのかは、調べていないので謎。

それがさらに誤解を招くのは、このブドウで作ったワインがあって、それもそのまま「フラゴリーノ」。「いちごのワイン」と紹介されてしまっているのも見たことがあるが、それは大きな誤解、正真正銘の、ブドウのワインなのでお間違えなく。
気候の問題なのか、もともとブドウ自体の生産がヴェネツィア近郊だけに限られているからワインの製造量もうんと少ないこと、それと、確かワインとしてはアルコール度が低すぎるからと聞いたことがある気がするのだが、ともかく基本的には一般に流通していない。
流通しないからプレミアムがついて高いとかそういうことではなくて、要するに地元の人だけが飲む、ハンパものと言ったらいいだろうか?ヴェネツィアの、たいていのバカロ(bacaro、立ち飲み居酒屋)ならグラスで飲める。
白も赤もあるのだが、お勧めは断然、白!香りが高く、ちょっととろっとして甘いのだが、不思議と重くなくて飲みやすい。だから食後はもちろん、食前でもOK。ともかく、冷たく冷やしておくことが大切。アルコール度が低く、口当たりがいいので、お酒はあまり得意じゃないけど、ほんの少し味わいたい、という人もぜひ。ちなみに赤は、甘めの軽い若いワイン、といったところ。

ワインは一応1年中あるけど、ブドウはほんとに季節ものなので、この時期ヴェネツィア近郊へお越しの際はぜひこちらもお試しを。メルカート(mercato、市場)はもちろん、最近はスーパーでも見かけるようになった。うんと熟していて、すでにワインのような香りをぷんぷん漂わせているから、それだけでいい気分になれるかも。

21 set 2007
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by fumieve | 2007-09-22 07:37 | 飲む・食べる

続:安田侃「時に触れる」展

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Nascita - Born
Marmo afion bianco – cm.134x100x96h

先日、ローマでの展覧会について書いたら、
「もっと作品に寄った写真はないのか?」
とうれしいリクエストをいただいたので、調子にのって写真を追加します。

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Goccia del tempo - Drop of time
Marmo di Carrara 0 cm.200x164x40h 2 pezzi

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Contenitore del tempo - Time container
Marmo nero del Belgio - cm.129x50x190h con base

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Ishinki(Sasso) - Pebble
Bronzo bianco - cm.320x240x150h

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Chiave del sogno - Key of the dream
Bronzo - cm.380x80x280h

あとは、実際に展覧会へおいでになるか、カタログをお求めください・・・。
18 set 2007
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by fumieve | 2007-09-19 20:03 | 見る・観る

ディミトラ・テオドッシウ~マリア・カラスに捧ぐ

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ヴェネツィア、フェニーチェ劇場

Dimitra Theodossiou
Omagio alla “Divina”
Teatro La Fenice, Venezia

世の中には、類まれな能力を持って生れてくる人がいる、とあらためて実感した。

30年前のこの日、パリで54歳の生涯を閉じたソプラノ、マリア・カラス。ヴェネツィアでは彼女に捧げたコンサートが開かれた。
歌い手はディミトラ・テオドッシウ。ヴェネツィアでは今年の新年コンサート以来の公演である。
私はもちろん、生で聴くのは初めて。実は、この週末は予定がはっきりせず、はなからあきらめていたのだが、暇になったところに、昨日たまたま話をした友人が行くと聞いて思い出した次第。当日になって、しかもお昼を回ってからボックス・オフィスへ行くと、残席2つ、40ユーロか、10ユーロという。どちらも、「視界に難あり」(もっともフェニーチェの場合、構造上かなり多くの席がこうなる)。迷わず10ユーロの券を購入した。

劇場に向かう徒歩10分ほどのところ、友人からにわかに情報を仕込む。なるほど、記念行事に招聘されるだけあって、同郷、マリア・カラスの後継者とも言われているとか。
心なしか、今晩は観客のおしゃれ度が高い。男性率が高い(つまりカップル率が高い)上に、女性のドレスやアクセサリーがかなり華やか。

マリア・カラスが初めてここフェニーチェで歌ったのが、1947年12月30日。したがって、ヴェネツィアにとっては、今年は初公演から数えて60周年でもある。
その記念すべきカラス初演の演目であった「トリスタンとイゾルテ」から、プログラムになかったものを追加して始まった。
ところが・・・このトリスタンと、次のワルキューレがひどい。オーケストラが、今日は主役でないにしてもこんなでいいのか・・・。今晩のコンサートの序曲であるはずが、ともかく不安をかきたてるばかり。誇り高きソプラノが怒って帰っちゃったりしないんだろうか・・・。
ところが、そんな心配はすべて杞憂。黒の、今年らしく肩の大きく開いたドレスで登場したディミトラ・テオドッシウは、穏やかなほほえみで観客に挨拶をしたあと、ものすごい集中力で一瞬のうちに場の空気をもくっと緊張させ、いきなり「恋はバラ色の翼に乗って」(ヴェルディ、「トロヴァトーレ」より)に入っていった。

そしてその声の、ほんとうになんと美しいこと。

10ユーロの「難あり」の席、だが、つまりオーケストラ(舞台)のほぼ真上。立っていれば、真横から見下ろす格好になって、かえって近くからよく見える。心配した「声」もまったく問題なく、それこそピアニッシモな声まで一言一言きちんと聴かせるのはさすが。
やわらかな高音、深い低音。大小、強弱、緩急とめりはりがしっかり効いていながら、それがあくまでも自然。いや、自然なのだが、その音のあまりの純度の高さは、とても人間の声とは思えない。
ソプラノとはこういうものか・・・と思った。
そうして、1曲歌い終わる度に、盛大な拍手に応えて、劇場内をゆっくりぐるりと見渡すのだが、それが、あたかも1人1人にしっかりと目を合わせるかのよう。キラキラとした瞳に見つめられているようで、ドキドキしてしまった。

2曲歌っては一旦休み、着替えて出てくる、といった進行。ちなみに2着めは、水色のシフォンでビーズを散らしたシンプルな形のドレス。3着めは、白地にパステルカラーのビーズで模様の入ったドレスの上に大きなピンク色のタフタのショールをまとって。実はおそらくこれが、少々太めな体型をうまくカバーしていた。

休憩をはさんで、いよいよ、ベッリーニの「ノルマ」。スパンコールを散らした真白なドレスで登場したディミトラは、亡きカラスの十八番であったこの演目、安定した見事なコロラトゥーラで観客を魅了した。
演奏会形式だから、基本的には演技はなしなのだが、ジェスチャーや表情も曲により全然違う。ケルビーニの「メディア」では濃紺のおどろおどろしいドレスに身を包み、嫉妬に狂い復讐を誓う恐ろしい女に変身。
最後は、赤に黒を重ねた、やはりシンプルなドレスであらわれ、激しい愛を貫くトスカの「歌に生き、愛に生き」。激情にかられながらも決してくずれない、あくまでも正確でありながら情緒たっぷりの、すばらしいトスカを聴かせてくれた。

驚いたのは、観客席最上段から、赤、ピンク、白の生のバラの枝が、バラバラにたくさん投げ込まれたこと。本人は、びっくりしながらも舞台上に散った枝を自ら拾い集めたりしていたが、上から突然そんなものが降ってきた、弦楽器奏者たちは気が気でなかっただろう。アンコールでもう一度歌ったトスカは、そのバラを腕にかかえての歌となった。

彼女にとってもおそらく、満足のいく公演だったのだろうと思う。盛大な拍手とアンコール、何度も何度も舞台の上で挨拶する姿にはすでに大物の貫録がありながら、本当にうれしそうな、かわいらしい笑顔を振りまいていた。
また気になる人が増えてしまった。願わくば、これ以上膨らまないでほしい・・・。

R. Wagner, Tristano e Isotta
R. Wagner, La Walkiria, Cavalcata delle Walkirie
G. Verdi, Il Trovatore, D’amor sull’ali rosee
G. Donizetti, Roberto Devereux, E sarà.. Vivi ingrato
G. Verdi, La Traviata, Preludio
G. Verdi, Otello, Ave Maria
G. Puccini, La Bohème, Donde lieta uscì
W.A. Mozart, Andante per flauto e orchestra K315
G. Donizetti, Anna Bolena, Al dolce guidami

V. Bellini, Norma, Sinfonia
V. Bellini, Norma, Casta Diva
J.S. Bach, Suite in Si min. BMV 1067
L. Cherubini, Medea, E che io son Medea
G. Puccini, Tosca, E lucean le stele
G. Puccini, Tosca, Vissi d’arte

16 settembre 2007
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by fumieve | 2007-09-17 09:03 | 聞く・聴く

ローマのヴァレンティノ

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ローマのヴァレンティノ
アラ・パキス博物館
10月28日まで

Valentino a Roma
45 years of style
Museo dell’Ara Pacis
6 luglio – 28 ottobre 2007
www.arapacis.it

イタリアを代表するデザイナー、ヴァレンティーノ・ガラヴァーニ氏の活動45周年を記念した展覧会である。
実はちょっと、甘く見ていた。
なにしろ「話題」の展覧会だし、せっかくローマに来たから、ついでに寄ってみよう、ぐらいの気持ちだった。

会場は、アラ・パキス(平和の祭壇)。ローマ初代皇帝アウグストゥスが建造させたもので、周囲の浮き彫りには、古代ローマ建国の神話のほか、祭壇に向かうように描かれた群衆の中にアウグストゥス一家の肖像が描かれており、美術史上に残るモニュメントである。ただし、現在は場所を移され、ガラス張りの建物の中に入って博物館化している。

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チケットを買って、入口をはいるとまず暗くなった廊下の両側に、ヴァレンティノを着たマネキンがずらりと並ぶ。もちろんこれは序章。抜けると目の前に、この博物館の主である「平和の祭壇」。中央には、「白」を着たマネキンたちが、そこへ向かって行進している。両側には、「ヴァレンティノの赤」を着たマネキンたち。両手を伸ばしてこの一連のイヴェントを称え上げている。
合唱団か、あるいは群舞のように見えるこのマネキンたちだが、もちろん着ているものは全員違う。50年代から今年2007年まで、ヴァレンティーノ氏のデザインによるコレクションの一部である。
実はここまでは、テレビのニュースでさんざん見ていた部分。祭壇の中を通って、反対側へ抜けると、今度は目の前を歩くのは「黒」のマネキンたち。白も赤も、祝祭にふさわしい優雅な色だが、やはり格式が最も高いのは「黒」。その一段と優雅なドレスにはっとする。

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そして黒はまた、永遠の別れを象徴する色でもある。
つい先日、9月に入ってから、来年の1月のコレクションを持って引退すると発表したヴァレンティーノ・ガラヴァーニ氏。7月にここで、45周年を記念する大祝賀会を行った際には、進退については直接コメントしなかったのだが、この時点で、決意はなされていたように見える。

全体の構成の見事さに感嘆し、1つ1つの衣装の美しさにため息をつき、ここまででも既に「ヴァレンティノ」のすごさを十分に実感できる。

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が、それだけではなかった。
裏へ回ると、今度は色とりどりのドレスに身を包んだマネキンたちが、階下へと我々を誘う。光をいっぱいに浴びて、あたかも勝利のファンファーレを鳴らしているようであった階上から一転、地下はかなり照明を落としてあり、高級メゾンに足を踏み入れたような気分にさせられる。

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まずは、セレブに愛用された衣装。布張りのマネキン、首のところにはそれぞれの名前が刺繍してあるほか、横に小さなモニターが立っていて、実際に着用した際の写真が。ソフィア・ローレンからダイアナ元妃、そしてつい先日、ヴェネツィア映画祭で目にした若い女優さんたち。

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次は、デッサン。「細部まで全部描き込まなければ気がすまなかった」という初期、50年代のものから、「簡単なスケッチでいいということがわかった」最近のコレクションまで。デッサンの方法や内容が変化しながら、変わらないのはその中にかける情熱とアイディアの豊富さ。
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最後はアクセサリー類と、「その他」の衣装類。アクセサリーはほんの少しなのだが、最も、アクセサリーはアクセサリーで、やろうと思えばそれだけで単独の大きな展覧会ができるだろう。

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それにしてもどれをとっても1つ1つが芸術品。出来上がりの、その形、色はもちろん、それを構成する素材も、細かい表示がなかったのが残念だが、見ただけでもそれが、超一級であることがわかる。そして、特にビーズやスパンコールを使った刺繍が多いのは、これぞまさにオートクチュールだからだろうか。そんな作品を目の前で、しげしげと眺められるのは展覧会ならでは。
そして不思議なことに、毎年、毎シーズン新しいデザインを生み出していくのが宿命であるはずなのに、どれを見ても全く古くさくない。

北イタリア出身のヴァレンティーノ氏だが、初めて独立してメゾンを開いたのがローマ、そしてそれ以来ずっと長年にわたり、映画界や内外のVIPとの関わりが深かったからだろうか。ミラノ・モードを代表するアルマーニ氏と異なり、ヴァレンティーノ氏と言えばやはりローマの人。この展覧会はローマで、しかもこの初代皇帝の勝利記念碑であるこのアラ・パキスでなければならなかった。

道路に面した、ガラス張りの壁沿いには、あたかもお店のウィンドウのように、これも歴代のコレクションを着たマネキンが並んでいて、中に入らない人の目をも楽しませていた。

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13 settembre 2007
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by fumieve | 2007-09-14 09:54 | 見る・観る

安田侃「時に触れる」展

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安田侃「時に触れる」展
ローマ、トライアヌスの市場(皇帝たちのフォロ博物館)
2008年1月13日まで

Kan Yasuda Toccare il tempo
8 settembre 2007 – 13 gennaio 2008
Mercati di Traiano
Museo dei Fori Imperiari, Roma
www.kan-yasuda.co.jp

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彫刻は野外が似合う。まして、大理石の大きな作品の場合は。

「トライアヌスの市場」は、フォロ・ロマーノの横、コロッセオを背に、広い道路をはさんで右側にある。「市場」とはいっても、その言葉から連想されるような屋台ではない。皇帝トライヤヌスが、手狭になって使いづらくなっていた「フォロ」(広場)を新しく整備するにあたり、同時に「市場」用に、この赤い煉瓦づくりの、半円の弧を描いた建物を建造させた。数層から成る、劇場や闘技場を思わせるその建物は中が細かく分かれていて、今でいうとテナントが並ぶショッピング・アーケードといったところ。
このエリア、「皇帝たちのフォロ」は、もうずいぶん長いこと発掘調査及び整備のために工事中だったが、ようやく博物館として一般公開されることになった。

この展覧会は、「トライアヌスの市場」全体を使って作品が展示されている。

まず、巨大な煉瓦の「市場」、その前に発掘物だのの破片や一部がごろごろと一見無造作にならぶ会場、遠目には作品がどこにあるのか、全然わからない。近づいていってみると、純白の大理石や、黒々と光るブロンズの大きな塊が、そこここに置かれているのに気づく。
帝国ローマの廃墟を前に、突如としてあらわる現代美術。ところがそれが、あまりにも自然に見える。あたかも、ずっと昔からそこに「いた」かのように、静かに息づく彫刻たち。大理石とブロンズという、まさにローマの時代からずっとこで使われてきた材質と技術を用いながら、作品は極めて日本的な情緒を含んでいて、周囲の建築・彫刻群とはきわめて異質である。にも拘わらず、そこにあることに全く違和感がない。作品と、背景としての遺跡とが、お互いに全く邪魔をせず、むしろほとんど無関心のように共存しながら、見事に調和し、引き立てあっている。

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コロッセオの内部を見学したことがある方はそれを思い出していただきたいのだが、この「市場」も、おそろしく急な階段で上の階まで上がっていける。そして、廊下に向かって並ぶ小さな部屋をのぞくと、商店ならぬ作品が1つ。これがまた、意外な出会いがあって面白い。
あるいは、外に出ると、先ほどまで上に仰ぎ見ていた作品が目の前に。逆に、見下ろせばさっきは目の高さで見ていた作品が、ずっと下のほうに見えている。もともと彫刻というのは「立体」であるが、それを上から下から、ながめることができるというのも、なかなか珍しいのではないか。

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さらに一番上まで登ると、大きな松の木の下、芝生に乗っかった作品。その向こうにはふつの、ローマの町の建物が見える。

常設展の中でそのまま特別展を設ける、というのは(おそらく特別展用の空きスペースを持つことのできない、という事情もあり)ヴェネツィアでもよくやっているし、常設と特別展示の相互効果を狙って、イタリア内ではよく行われている手法である。
が、これだけの作品を展示するのに、これ以上ふさわしい場所はないし、この会場にこれだけふさわしい作品群もなかなかない。これだけ作品と背景が見事に一致した展覧会はめったにないだろう。

地下鉄がどんなに遅れようが、国立美術館の館員がどんなに働かなかろうが、そんなことはどうでもいいと思える、ローマの懐の大きさを実感した。

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12 settembre 2007
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by fumieve | 2007-09-13 08:47 | 見る・観る

第64回 ヴェネツィア国際映画祭~受賞式

最終日の今日、各賞の発表・受賞が行われた。

コンペ部門の各賞は以下の通り:
金獅子賞(最優秀映画賞)
Se, Jie (Lust, Caution), Ang LEE監督(米/中/台湾)

銀獅子賞(最優秀監督賞)
Redacted, Brian DE PALMA監督(米)

審査員特別賞
La Graine et le Mulet, Abdellatif KECHICHE監督(仏)
I’m Noto There, Todd HAYNES監督(米)

狐杯(最優秀男優・女優賞)
Brad PITT, The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford, Andrew DOMINIK監督(米)
Cate BLANCHETT, I’m Not There, Todd HAYNES監督(米)

マルチェッロ・マエストロヤンニ賞(若手俳優賞)
Hafsia HERZI, La Graine et le Mulet, Abdellatif KECHICHE監督(仏)

オゼッラ(最優秀撮影賞)
Rodrigo PRIETO, Se, Jie (Lust, Caution), Ang LEE監督(米/中/台湾)

オゼッラ(最優秀脚本賞)
Paul LAVERTY, It’s a Free World, Ken LOACH監督(英/伊/独/西)

金獅子特別賞(監督及び作品に)
12, Nikita MIKHALKOV監督

今回、圧倒的に前評判の高かったのは、フランス、チュニジア移民の家族の話を描いた、Le Graine et le Mulet(ボラとクスクス)。私個人としては、3年連続で期間中見逃した作品が金獅子をとるという事態からは免れたものの、「前評判の高い作品は、絶対金獅子を取らない」という映画祭のジンクスは変わらなかった。この映画に出演した、本人もアルジェリア・チュニジア系フランス人のHafsia HERZIの新人賞受賞はみな納得、だったよう。
イラク戦争を題材にした、ユーチューブやメイルといった新しいメディアを使ったReducted、De Palma監督の銀獅子は妥当か。
一方、La Graine…に次いでやはり評判の高かった(そして私は見逃した)、In the Valley of Elah(Paul Haggis監督)の受賞なしは意外。主演男優賞の候補にも挙げられていたが、それもなし。その男優賞はなんとBrad PITTで、これは誰も予測していなかったばかりか、同映画では敵役のほうが男優賞候補に挙げられていたほど。今回ダントツで一番の「ビックリ」。
主演女優賞は、I’m Not Thereで、ボブ・ディラン役を演じたCate BLANCHETTで、これは、ほぼ誰もが納得。
既に金獅子受賞の経験を持つNikita MIKHALKOV監督の12は、その質の高さに審査員もおそらく途方にくれてしまったのだろう。「特別賞」という賞を増設してお茶を濁した。今年はすでに北野武監督に「監督・バンザイ!」賞、イタリアの巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督には「75周年特別金獅子賞」を贈っているから、なんだか賞の大盤振る舞いという感じすらする。ちなみに、審査員賞が2作品に贈られたのも、例外的である。
移民問題を描いた、Ken LOACH監督のIt’s a Free Worldが、脚本で賞をとったのも、全体のバランスを見ると妥当と思われる。

金獅子の「ラスト、コーション」。美しい映画ではあったが、超娯楽大作の域を抜けず、ひしめきあう良質な作品の中では、全く巷では候補にも挙がらなかった。審査員長が、中国のチャン・イーモウ監督だったから、やはり最後はひいき目が勝つのか・・・と思われても致し方ないだろう。
ヴェネツィア映画祭は、これで3年連続中国系監督の作品が金獅子となった。2年前が今年と同じAng LEE, 昨年がJia ZHANGKE。ついでに言うならば、審査員が全く別ながら、並行に行われていたオリゾンティ部門でのドキュメンタリー作品賞に、今年はJia ZHANGKE 監督の作品が選ばれた。
もともと、日本映画も多く入賞するなど、アジア作品が活躍する映画祭ではあるが、こう重なるとなんとなく、どうなの?と思ってしまう。

なにはともあれ、11日間にわたって開催されていた映画が終了した。

8 set 2007
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by fumieve | 2007-09-09 09:30 | 映画

第64回 ヴェネツィア国際映画祭~6

12
監督 Nikita Mikhalkov
出演 Sergey Makovetsky ほか

12人の陪審員。
容疑者はチェチェン人の少年。ロシア人の養父を殺した罪に問われている。裁判の結果はほぼ明らか、自分に何の関係もない、興味のない陪審員たちは、「有罪」と決めてかかる。皆、さっさと終わらせて早く自分の仕事や家に戻りたい。
ところが、1人だけ、異を唱えるものがあった。理由は「彼の人生に責任を負いたくない」から。そしてともかく「話をしたい」、と。
これは映画だから、ある意味最初から、最後には覆るのだろう、と予測ができる。しかも153分、と長い。が、ドキドキが続いて一向に飽きない。まずは会話のテンポのよさ、そして「専用の部屋がまだ工事中だから」という理由で暫定的に会場に使われているのが小学校の体育館で、これが実に効果的な設定となる。そして12人それぞれが個性的で、何より人間的。見ていて完全に巻き込まれる。自分だったら、どうする?
登場人物が限られていること、ほぼ全編、閉じられた空間内でのできごとであること、何とか他人を説得しようと議論が続くから、なだめたりすかしたりとセリフやジェスチャーが少々大げさ気味で、Branagh監督のSleuth同様、かなり舞台的な作品。
が、それがいい効果を発揮していて、わかりやすい。自分の語学能力を棚に上げてあえて言うと、やはり映画は、ある程度、観客に「わからせる」よう作る必要もあるのではないだろうか。
舞台の背景にチェチェン戦争をおいているが、本質的にはチェチェンそのものではなく、もっと普遍的な内容であり、陪審制度の問題、人種差別、近代化のひずみ、格差・・・と、現代の社会問題を提起している。陪審という、密室かつ非日常の空間にいながら、実は究極に人間くさいドラマである。
最後のエピソード、最後の最後のセリフまで気が抜けない。

Heya fawda (Chaos)
監督 Youssef Chahine
出演 Khaled Saleh, Y.EL. Cherif, H. Sedky

エジプト映画。ブ男な警察官が、隣に住む美女に恋い焦がれて、ストーカーまがいの行為を繰り返すという話。これがまた、何かと袖の下を要求するわ、権力を悪用するわでどうしようもない男。内容のバカバカしさと、くさい演技とで、そういえば先日のイタリア映画といい勝負かも。もっともこちらは、はじめからお笑い仕立てな分、ましかもしれない。が、お笑い娯楽ならば、いっそインド映画くらい徹底的にやってほしいものだが、これもまた国民性の違いなのか、少々中途半端。
都合により、私は途中で退出してしまったのだが、話によると最後までずっとこの調子だったらしい。
なぜこれがコンペに?と思うが、考えてみれば、23本もの作品があれば、いろいろなものがあるということだろう。

Man from Plains
監督 Jonathan Demme

今年の映画祭、前述のエジプトどたばた映画が最後かと思うと何となくがっかりで、コンペ外だが、人に勧められたこの作品をシメに見ることにした。
ジミー・カーター元・米大統領のドキュメンタリー。イスラエルの平和のために、80歳を越えてなお活動を続ける、その様子をレポートする。
数年前に、「パレスティナ、アパルトヘイトなき平和」(イタリア語からの直訳、邦訳が出ているかどうかは不明)という著書を刊行しており、この映画では全編を通してその販促活動に奔走する姿を追う。その間に、エジプト、イスラエル間の協定の仲介となったデービッド・キャンプなど、大統領現役時代の映像が差し込まれる。
したがって、映画自体かなりプロパガンダ的であることは否めない。が、その点をさっぴいても、ジミー・カーターという1人の「元・大統領」の人となりがよく伝わってくる。今は完全に白髪で、アメリカ人としては小柄に見える彼の、精力的に活動を続ける様子、周りに気を配りつつも自分の意思は絶対に曲げない強い姿勢、奥さんとの愛情あふれるやりとり。
国内外を問わず、なんらかの社会貢献は、立場上必須であろう。が、彼の場合はお仕着せでもかっこだけでもなく、ほんとうに自らの心血を注いでいるように見える。

アメリカには、まだこういう人が存在する。

7 set 2007
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by fumieve | 2007-09-08 08:37 | 映画