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ヴェネツィア ときどき イタリア

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第24回 プレミオ・ヴェネツィア 国内ピアノ・コンクール

Premio Venezia XXIV edizione
20- 25 novembre 2007
Venezia

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ここで何度か紹介している、「フェニーチェ友の会」の重要な役割の1つが、年に1回行われるこのピアノ・コンクール。国籍は不問だが、確かこの1年だかにイタリア国内のコンセルヴァトーリオ(conservatorio, 音楽院)の旧コース、または新コースの3年制(大学の学部にあたる)を卒業したての人に限る、などと比較的参加条件の厳しいコンクールらしい。そしてイタリア内で数多くあるコンクールの中でも、賞金がかなり高いこと、地元中心とはいえその後1年間にいくつかの演奏会が保障されていることなど、ピアノを弾く人にとってはかなり魅力的なコンクールなのだろう。
毎年11月後半に実施されるプレミオ・ヴェネツィア、今年は11月20日(火)に始まった。
まず、テープ審査を通った32人による1次予選。主催者である「友の会」会員には、予選から最終までの入場招待券が送られてくるのだが、この日だけは非公開審査。
半分に絞られて、15人前後による2次予選が、22日(木)、23日(金)と2日にわたって行われる。これはフェニーチェ劇場内の「アポロの間」という、いつも「出会い」の講義や、室内楽のコンサートに使われている部屋。今年は行けなかったのだが、これは確か1人20分とか30分とかの持ち時間で順番に演奏していくもの。この時点では人数が多いため、わりと機械的にどんどん進む。時間オーバーだと途中で止められた奏者も見たことがある。参加者の課題などは調べたわけではないのでわからないが、確か、みな自由曲だったように思う。
24日(土)が、セミファイナル。この日は2次を通過した5人、この日からはフェニーチェの大劇場での公開演奏になる。実は、以前、2次予選をのぞきに行ったときには、まだ人数が多いせいか結構ばらつきがあるというか、若干玉石混淆みたいなところがあった。今年は、初めてこのセミファイナルを聴きに行ったのだが、さすがにあと5人となるとうまい。
最初は線のほそ~~~い、腕と指がうそのように長い女の子。
Ilaria Loatelli (Conservatorio di Verona)。
R. シューマン ソナタ 嬰ヘ短調op.11
S. プロコフィエフ トッカータ ニ短調op.11

2人めは男の子。
Riccardo Schwartz (Conservatorio di Milano)
R. シューマン アレグロ ロ短調op.8
F. ショパン バッラータ1番ト短調op.23
I. ストラヴィンスキー ペトルーシュカからの3楽章より
最初のイラリアも上手だと思ったが、彼が始まったら、うわ~、こちらのほうがやはりさらに上手(うわて)。どんな曲もどんなフレーズも余裕で弾いているようで、それから思うとイラリアは何か「いっぱいいっぱい」だったな・・・。

3人目はマッシュルームカットの男の子。
Scipione Sangiovanni (Conservatorio di Lecce)
A. ジナステラ Criollas舞曲組曲 op.15
F. ショパン ソナタ第3番 ロ短調 op.58
ショパンが異様に似合う。うまくいえないが、何か独特の「空気」を持っている。妖気といってもいいくらいの・・・。

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休憩をはさんで、本日2人めの女の子。
Viviana Lasaracina (Conservatorio di Monopoli)。
F. ショパン バッラータ1番 ト短調 op.23
F. ショパン バッラータ3番 変イ長調 op.47
S. プロコフィエフ ソナタ第7番 変ロ長調 op.83
本日初めての長調だったこともあると思うが、今までで1番「明るく元気」な印象。最初に出てきたときには胸元をずいぶん強調した衣装に少々驚いたが、そんな邪念を演奏が軽く吹き飛ばした。

最後は、Mirko Ceci (Conservatorio di Bari)。ひょろひょろ・・・とした「かまきり君」みたいな男の子。
S. ラフマニノフ 前奏曲 変ホ長調 op.23 n.6
G. Ligeti Automne à Varsovie, ピアノのためのエチュードより、第1巻 studio n.6
F. ショパン ソナタ3番 ロ短調op.58
やはり最後になるほど上手なような気がする。が、ここまで来るとこちらも目と耳が限界になってくる。最後のショパンはかなり聞き流してしまった。

今日、25日(日)がいよいよファイナル。残念ながら私は聴きに行けなかったのだが、聞いたところによると、決勝に残ったのは、やはり最後の2人、ヴィヴィアーナ・ラザラチーナと、ミルコ・チェーチ。そして、ミルコが今年の栄冠を見事に射止めたらしい。
来年のプレミオ・ヴェネツィアまでの間に、この2人についてはCDが発行される上に、ヴェネツィアでも何度か演奏を聴くチャンスがあるはず。また楽しみに待ちたい。

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25 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-26 21:32

レ・ブルレ・ヴェネツィアーネ

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アンティーク・ビーズのアクセサリー

Le Burle Veneziane
San Marco 3436 (Piscina San Samuele)
Tel.&Fax. +39 041 522 2150
www.leburleveneziane.com/

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ここ数年の間にヴェネツィアは、ガラスのアクセサリー屋さんでいっぱいになってしまった。おしゃれできれいなアクセサリーは、見ているだけでも楽しい。が、似たようなものがたくさんありすぎて、結局選ぶのに困ってしまう。そんな状況にすらなりつつあるヴェネツィアで、しっかり個性を放っているお店の1つがここ、Burle Veneziane(ブルレ・ヴェネツィアーネ)。
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サント・ステファノ広場(Campo Santo Stefano)、同名の教会の目の前の道を入って、数軒先、右に曲がって正面の角、横に階段の張り付いた建物。ガラス窓の向こうに、細かいビーズの繊細なアクセサリーが並ぶ。ムラーノのアンティークのビーズを中心に、選りすぐりの材料を使って、デザインから実際の製作まで、お店のモニカさんが全部1人でやっている。一見、ちょっとロマンチックすぎるような雰囲気があるのだが、これがそうでもなく、実際に肌にあててみると、ビーズの落ち着いた色合いのせいか、しっくりと馴染んで、全く違和感がない。ネックレス、ペンダント、チョーカー、ピアスに指輪といった小さなアクセサリーから、靴にショールまで。変わったところでは、ランプシェードや、カクテルグラスの足にビーズを巻いて彩りを添えたもの。お店でもピアスを飾ってあるが、ちょっとしたアクセサリー置きにちょうどよさそう。
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アンティーク・レース?と思って目を近づけると、全部もちろんビーズ細工。1つ1つ。全て手で作っているのかと思うと気が遠くなるほどの、細かい作業。
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どれも変にガラスガラスしないし、キッチュにもならない。それどころか、大きなアクセサリーはどれも、決して大げさに派手派手しくなく、豪華ながらもエレガントなものばかり。小さなアクセサリーはさりげなくかわいらしくて、ふだん遣いにももちろんOK。少し前に、在住していた日本人の友人に教えてもらったのだが、なるほどさすが、と納得。
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パリやニューヨークのお店にも卸しているそう。
そして、ビーズというのは使ってみるとわかるのだが、肌へのあたりが優しい上に、小ぶりなものならほんとに軽くて、身につけていることが全く気にならない。
実は、夏に卒業したあとに、自分への卒業祝いのつもりで、1つ1番小さなネックレスを買ったのだが、どうしてもおそろいで指輪がほしくなって、先日、指輪を買った。ネックレスの色に合っていたものは、ちょっと派手かな、と思ったのだが、これが指にはめてみたらサイズも含めあまりにも指にしっくり。元のネックレスよりもさらに気に入ってしまった。
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見ればみるほど、どれもこれも欲しくなってしまい、次は何を口実にしようかと考案中・・・。1週間あれば、短期でビーズ・アクセサリー作りの講座もやってくれるそうなので、興味のある方はぜひ。

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23 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-24 00:19 | Shopping!

「メダルド・ロッソ、定まらぬ形」展

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ヴェネツィア、グッゲンハイム美術館
2008年1月6日まで

Rosso. La forma instabile
Venezia, Peggy Guggenheim Collection
22 set - 06 gen 2008

祭りのあと。昨夜の祝祭が終わるのを待っていたかのように、今日は昼過ぎから雨になった。のみの市は跡形もなく消え去り、また、たくさんの屋台のシチリア人たちもきっと、「寒い寒い」と言いながらシチリアに戻ったことだろう。
明日、明後日はアックア・アルタになるという警報が携帯メールに届いた。11月。確実に。

毎年、11月14日~21日、グッゲンハイム美術館は、ヴェネツィアの祭日にちなんでヴェネツィア住民に無料開放するほか、常設展や特別展の無料ガイドなどを用意する。これを利用して、期間中に企画展をガイドつきで見た。

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1858年トリノ生まれのメダルド・ロッソは、ミラノでブレラ美術院に通ったものの、アンチ・アッカデミア派として知られる。イタリアで高い評価を受けることがなく、フランスへ移り、そこで認められたという。
最初の部屋の作品は、”Enfant an Sein”(Child at the Breast, 1899)。黄色系の大理石の塊から、若い女性の横顔が浮き上がっている。それ以外はよくわからない。いや、よく見ると、タイトル通り胸に幼子を抱いている。が、無造作にうっすらと輪郭が掘り起こしてある程度。この未完成のようなスタイルが、彼の特徴で、つまりアッカデミア派主流の当時のイタリアでは酷評のもととなった。また、大理石に見えるがじつは石膏の上に蝋を塗ったもので、これも彼の作品の特筆すべき点である。蝋が、何か別の材質に見える。
さまざまな材料を試し、また写真も表現手段の1つととらえた。そうして、同じテーマを繰り返すのも彼の特徴の1つ。ブロンズ、蝋、写真、10年前の自分の作品の写真を見て、再び同じテーマを取り上げる。それも、彫刻だから「型」をとることもできるのだが、そうではなくて、「手」の記憶がもう1度同じ作品を作り出すのだという。なので、そっくり同じように見えても、全く同じ作品はない。
そのうちの1つが、”Grande Rieuse”(大きな微笑)というタイトルのほほ笑む女性の頭像。ブロンズの胸像(1899-1901年)は、頭から肩にかけて、背後に輪郭より一回り大きな板が張り付いている。中世の祭檀彫刻の聖人のよう。実は、鋳型に流したものを合わせて作ったときの「耳」がそのまま残してある、という。あとは皆、1903-04年、1910-27年、1923年以降、とすべて首から上の頭だけで、蝋による作品。小柄な美しい女性の顔ながら、ようやく定まるか定まらないか、というぼんやりとした輪郭。口元が確かにわずかにほほ笑んでいる。今回のガイド氏によると、ロッソはレオナルド・ダ・ヴィンチの研究者でもあったそう。そして、”Rieuse”は、イタリア語でgioconda。なるほど。La Gioconda(ラ・ジョコンダ)といえば、モナ・リザのことである。ダ・ヴィンチのあの、輪郭をきっちり描かずに、色でぼかしていく手法、あれを彫刻で表現しようとした、ということか。
「未完」という意味では、16世紀ヴェネツィアの画家ティツィアーノも若いころのきっちりと精密な画法から、晩年になって、荒い筆のタッチによる表現に変わっていく。当時はやはり年老いて昔のように筆が使えなくなったから、とか、完成させる力がなくなったからとか勝手な憶測と批判も受けた。そしてそれから3世紀を経て、フランスで印象派が生まれる。アッカデミア的な、精密で写実的な絵画から、光と色を追求し、自由なタッチで表現する画家たちが出てくる。ところが彫刻は、その動きから取り残されていたのだろう。
坐像、“Henri Rouart”(1913)は、黒蝋による作品で一見ブロンズに見える。縦方向に引き伸ばされたような顔と体、つぶれた胸、全体に縦に深く走る溝・・・注文主のお気に召さなかったというが、おそらく肖像画としてはあまり似ていなかったのだろう。が、作品として見れば、セザンヌのいくつかの肖像画などを思わせる。
最後の部屋に並べられている、一連の”Ecce Puer”。髪の長い女性の頭部である。1906年、石膏によるそれは、白い枠からほんのり浮き上がる大きな女性の顔。全体にヴェールをかぶっているかのようにうっすらとぼやけているそれは、ローマのパラッツォ・マッシモ国立博物館にある、紀元前5世紀のアフロディーテの彫刻(浅浮き彫り)を思い起こさせる。一方、同じテーマ、ほぼ同じ彫刻ながら1914-17年の蝋、1923年以前の石膏による2つは、荒い木彫りのように見える。長い髪の縦のラインがおどろおどろしいほどに強調されていて、こちらはフィレンツェ、バルジェッロ国立博物館のドナテッロの木彫「マグダラのマリア」を思わせる。そういえば、ルネッサンスを代表する彫刻家ドナテッロも精密で写実的な美しい彫刻を掘っていたのが、晩年になってあの木彫を作っている。

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ヴェネツィアの中でもちょっと「おしゃれ」で、それでいてほっとする空間、グッゲンハイム美術館は、市民開放デイを享受する人々で、遅くまでにぎわっていた。

22 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-23 07:50 | 見る・観る

聖母サルーテ祭

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Festa della Madonna della Salute

17世紀、猛威をふるったペストの終焉を感謝し、奉納のために建てられた聖母サルーテ教会(Chiesa di S.Maria della Salute、サルーテは「健康」の意)。1681年に、「聖母マリアの奉献の日」、すなわち11月21日の祝祭の日、ヴェネツィア総督も参列した宗教行列のために、大運河に船を並べて橋のように渡っていけるようにした。現在は船でなく、この数日間、いかだをつなげた仮の橋ができる。
7月第3日曜日のレデントーレ祭(教会の由来も、橋ができるのも同じ)と並んで、ヴェネツィア市民の祭日で、この日は学校をはじめヴェネツィア市内は祝日扱いとなる。

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サンタ・マリア・デル・ジリオ(Santa Maria del Giglio)前、ホテル・グリッティ・パレス(Gritti Palace)の横、いつもなら渡し舟の乗り場になっているところから、今日のために架けられた仮の橋を使って大運河を渡る。大聖堂にたどりつくまでに、何人か、お供え用の蠟燭売りがいる。もちろん、大聖堂前の広場にも。さすがに人が多い。聖堂の中は身動きできないほどの人だった。今日は、毎時ミサをやっているのだが、ゆっくり散歩がてらお参りに来る人には、午後の遅めの時間がちょうどいいのだろう。
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信者でない私にとってこのお祭りの楽しみは、教会の晴れ姿。正面祭壇のマリア像の後ろに大きな赤い天幕が飾られ、堂内の白い大理石の柱が赤いビロードで覆われる。丸い堂内をぐるりと囲む柱は、赤の濃淡(実際は1色なのだが、ビロードの毛足の高さを変えて模様を出している)でより厳かに。周囲を取り囲んでいる祭壇の柱は、多色使いのビロードでより華やかに。今日はきっと人が多いだろうと、これは昨日のうちによく見ておいて正解。
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信者でないものにも、信者のみなさんにもこのお祭りのもう1つの楽しみは、屋台(のはず)。日本のお祭りのように、といっても、教会から出てすぐ近くの、ほんの数百メートルほどのカッレ(calle、小道)に屋台が並ぶ風船だの、子供用の妖しげなおもちゃなども売ってたりするのだが、メインは食べ物。アーモンドを炒って、砂糖がけにしたもの、またはカラメルで固めて板状にしたもの。マジパンでつくった色鮮やかな果物の形のお菓子。リコッタ・クリームを詰めた、筒状のカンノーリ。そう、実はすべて、シチリアの名物とされるお菓子たちで、ふだんからヴェネツィアにあるもの、ないもの、いろいろだが、それぞれの屋台が「シチリアの味」とか「シチリア名物」とか看板を出しているから、屋台=シチリアみたいな伝統というか、そういうものなのかもしれない。綿あめ、フルーツの水あめがけ、といった、日本の屋台みたいなものもある。
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日本の屋台と違うのは、どれもこれもすべて甘いものだということ。やきそばとか、とうもろこしとか、焼き鳥、そういう塩っ気のものもあるとますます食欲がわくのに・・・と思ったりするが、ないものはない。
惹かれるものはいろいろあるが、この日に絶対に食べなくてはならないのは、フリッテッレ(Frittelle)。カーニヴァルの時に食べるFrittelleは、ころっと丸い形に挙げたドーナツに、クリームなどがはさんであるのだが、同じ名前で、ここで出てくるのは、顔よりも大きい平たい円盤状、ちょうどフリスビーくらいのものを目の前で揚げて、その揚げたてのところにグラニュー糖を両面にぎゅうぎゅう押しつける、というもの。どちらかというと、揚げパン。カロリーが異常に高そうな爆弾的な代物ながら、なにしろしんしんと冷える寒さ、適度に歩いて(ミサに立ったまま参加して)小腹が空いているところにこの匂い。とても避けきれるものではない。実際に、フリッテッレの大鍋の前には一段と人だかりがしていて、一目でそれとわかる。で、やっぱりおいしい。
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すぐ近くにあるグッゲンハイム美術館は、毎年この日までの1週間の間、ヴェネツィア市民祭として住民に無料開放するのも既に定着しているようだし、今年は、やはり同じエリアにあるアッカデミア美術館も今日は1日、市民は入場無料にした(らしい)。
また、昨日・今日は、近くの広場でのみの市をやっていて、特に古いものを含め、ガラスのビーズなどがたくさん出ていた。自分で何か作れれば楽しいだろうな・・・と思いつつ、1つ2つ買ってみたりする。a0091348_6535220.jpg
毎年、この日は必ずしんしんと体が冷える寒さになる。が、お祭りならではの、こんな「おまけ」も結構嬉しくて、やはり待ち遠しい。
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21 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-22 06:49 | ヴェネツィア

ビエンナーレ場外3・李禹煥 “Resonance”展およびアイスランド館

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ビエンナーレは、メインの2会場以外に、島のあちこちに場外の国別パビリオンがあるのだが、国別以外にもいろいろと、ビエンナーレ並行の企画展というのがある。この、李禹煥(リ・ウーファン)”Resonance”展もその1つ。会場は、フェニーチェ劇場近く、Palazzo Palumbo Fossati(パルンボ・フォッサーティ館)。
韓国出身だが日本を拠点にして長い李禹煥氏の作品には、まさに、イタリア人の期待するオリエンタリズムが凝縮しているといえよう。こちらでは、日本美術を語るのによく、「無の美」という言葉が使われるが、まるでそのお手本のよう。
入口を入ってすぐの、小さな中庭には、敷き詰められた白砂とその上に乗る、大きな鉄の板と、まるい石1つ。何度も繰り返しているように、ビエンナーレ場外館は、古いヴェネツィアの建物を使うことの多いから、その建物と、作品がいかに呼応しているかが楽しみの1つになる。ヴェネツィアの建物はそして、あまり大きくない上に、たいてい色が多い。外壁の濃いピンクや赤や黄色、窓枠の白、雨戸の緑。室内は木製の梁に、フレスコ画や色大理石。
そんなごちゃごちゃした環境の中に、だからよけいに「無」が生きるのかもしれない。背景とけんかせず、落ち着いて堂々とそこにあって、全く違和感がない。見るものを、ほっとさせる。
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矢印に従って、2階に上がる。入ったところにいきなり、彼の代表的な作品が並ぶ。白いキャンバスに、グレーの筆(刷毛?)で、一筋、ちょうど正方形になるくらいの色をさしただけの絵。「なるべく手をいれないことにより、その入れていない部分を表現する」、と解説にあったが、まさにその通りである。たったこれだけの色が、ほかのすべての部分の空間、空白を意識させる。そして、それらの作品を連続して並べることで、リズムが生まれてくる。ごちゃごちゃした外と違って、室内は空っぽの空間に白いパネルを張り巡らしてあるため、ほとんどニュートラルな空間になっている。と思ったら、一番奥の部屋はちょっとした驚きだった。床の間というか、奥に小さな劇場のような枠があり、天井にはフレスコ画がきれいに残る。作品が、しっかりそのすべてに包みこまれていた。
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また、作品の「石」が、セミナート(seminato)と呼ばれる、大理石の破片を敷き詰めたヴェネツィア風の床と一体化しているのも、これはきっと偶然なのだろうがおもしろかった。
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何気なく入った、アイスランド館。賑やかなサンティ・アポストリ広場(Campo di Santi Apostori)から広いストラーダ・ヌォーヴァ(Strada Nuova)に入ったすぐのところにあるビアンキ・ミキエル舘(Palazzo Bianchi Michiel)。
a0091348_21235367.jpg狭い前庭と狭い入口を入ると、縦に細長い煉瓦作りの室内に作品が並ぶ。写真を貼り付け、イラストを加えた日記のようなもの。朝食用シリアルの箱に、それをいろいろな自然の風景の中に置いて撮った写真を張り付けたシリーズ。手描きの文字の中に、あのBjörkがアルバム・ジャケットに使っているような書体のものがある。あれは、アイスランドのなにか伝統的なものなのだろうか・・・。
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作品の間を通って縦長の部屋を抜けると、奥は横に広い空間。リアルな鳥の彫刻、カルカルチュアのような不思議な彫刻群と、それを使ったチェス盤。それから、・・・温泉セットだろうか・・・木製の東屋に、木製の樽、その中に(バス・ソルトと思われる)塩。大きなスクリーンに映る風景。
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そういえば、アイスランドは温泉が多いときく。ヴィデオから流れている、女性の詩を朗読しているような歌声がまた、Björkを思い出させる。そう、アイスランドといえば、恥ずかしながらBjörkと温泉くらいしか知らないことに気づく。
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大運河に面した扉が開いていて、水の、波の音が聞こえる。女性の歌声が控え目に響く、静かな空間で、水の音すらも展示空間の一部を演出しているよう。
外に出てみるとすぐ左側にリアルト橋、右斜め前は青物市場。
今年のビエンナーレを特徴づけるような、静かで心地よい空間だった。
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20 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-21 21:18 | 見る・観る

(ヴェネツィア)映画祭史・1

Storia dei festival cinematografici

今年、第64回を迎えたヴェネツィア国際映画祭。世界3大映画祭のうちの1つ、特に、世界で最も古い映画祭である。

映画祭、映画の「フェスティバル」、とは何か?まず、限られた時間と場所で開催されるもので、単一にせよ複合にせよ、共通するテーマがあること。そして現在は多くの場合が、コンペティション方式、つまり賞がでる。イタリアには大小数多くの映画祭があるが、最古のヴェネツィア映画祭は、1932年に「国際映像芸術博覧会」として始まった。
1932年は、映画史にとって重要な年で、音声を入れる技術が開発されたこと、また、モンタージュ技術が開発されてきたり、と映画も発明当初から比較してこのころには格段の進化を遂げていた。

なぜヴェネツィアで?
19世紀後半、第二次産業革命を経た欧米は、新しい消費社会が幕を開ける。「万博」が大きな社会現象となったのはその象徴的なできごとであり、その中で、1895年、ヴェネツィアで「国際芸術展」が開かれた。これが、現在の「ヴェネツィア国際アート・ビエンナーレ」の始まりである。1930年代に入り、ビエンナーレは改革を遂げる。まず、31年に音楽部門を独立、そして32年に映画、34年には演劇も独立させた。
それまで、映画は大衆娯楽であり、芸術とは認識されていなかったのだが、「映像芸術展」として独立させるにあたり、別の思惑と一体化した。
20世紀初頭、ヴェネツィア出身の政治家、セルジョ・ヴォルピは、この町が危機にあることを訴える。「大きなヴェネツィア」のために、工業化、及び、観光と文化の強化の、2つの柱を掲げる。ヴォルピは、1917年にヴェネツィアの目の前、陸側のマルゲーラに港を開き、工場を誘致する。そして、32年、映画祭を創設する。
目的は、観光都市ヴェネツィアの、その吸引力をさらに格上げすることでもあったために、真夏の、海岸リゾート、リド島がその会場に選ばれた。

ヴェネツィア映画祭、1945年まで
ファシスト政府に与していたヴォルピの発案であったにせよ、ヴェネツィア映画祭は、少なくとも最初の数年は、完全な自由を謳歌していたことも大きな特徴である。つまり、アメリカ、フランス、ソヴィエト・・・と参加国に国境が全くなく、「敵国」とされていた国の作品も隔たりなく上映されたばかりか、内容に対する検閲もなかった。その「自由」こそが看板であったのである。
第2回は2年後の1934年、3回は翌年35年に開催され、それ以降、毎年開かれることとなる。37年には、映画祭館が建設され、それまではホテルの庭やビーチの特設会場での上映だったのが、室内上映へと変わる。が皮肉にも、このころから政治情勢が急速に変化し始める。39年が事実上、最後の「自由な」映画祭となった。1940年9月27日、三国軍事同盟の締結。この年、映画祭はそれまでのリド島から、ヴェネツィア本島に会場を移され、枢軸国およびその友好国の作品のみの上映に限定された。日本映画が初めてヴェネツィア映画祭に登場したのも、したがってこの年である。
41-43年には開催されたものの、「国際」レベルの映画祭ではないとして、現在はその数に数えていない。44-45年は休止された。
ヴェネツィアの若い映画評論家、パジネッティの言動は注目に値する。彼は、開催初年度から、「ほんとうの自由ではない」ことを指摘していた。「上映される映画が、制作会社や配給会社によって選ばれている以上、商業的に好ましくない映画は排除される危険がある。映画の選択の段階から、映画祭自体が完全に独立した存在でなければならない」。

戦後の歩み
46年、ヴェネツィアの本島で映画祭が再開される。ただし、コンペティションはなし。この年と翌47年は、戦後イタリアの「統一」ムードの中で、政治的思惑に全く左右されることなく、その役割を取り戻す。が、48年、世界が東西冷戦へと突入する中で既に空気は変化する。同年、イタリアではキリスト教民主党(DC)が政権を握る。反・社会主義、共産主義がイタリアを支配し、ネオリアリズムは、反体制派の鏡となり得る危険な存在として退けられるようになる。
イタリアを代表する映画監督ルキノ・ヴィスコンティが、現在でも傑作と評される「揺れる大地」(1948)、「夏の嵐」(1953)、「若者のすべて」(1960)ですべて賞を逃しているのがいい例といえる。ヴィスコンティはミラノの貴族出身でありながら、共産党を支持していた。
とりあえず、再考・再編の余地なく再開した映画祭だが、50年代に入り新しい姿が確立してくる。まずは、「スター主義」。映画祭は、大女優、スターをあがめる場所となった。一方、未知の世界の発見の場となったのもこのころからである。1951年には黒澤明「羅生門」が金獅子賞、52年から3年にわたり溝口健二が受賞。57年にはインド映画も賞をとった。
50年代末にはヌーヴェルヴァーグの到来。60年代に入ると、世界的な社会情勢が映画と映画祭にも大きな影響を与えるようになる。
(続)

大学の時間割を調べていたら、「映画祭史」というのがあったので出てみることにした。先週から始まり、今日で2回目の講義。映画もあまり知らない上に、イタリアの近現代史にも疎いのは痛いが、ここ3年ほど通った、あの映画祭の背景を知るのはなかなか面白い。
現在でも、最高俳優・女優賞をCoppa Volpi(ヴォルピ杯)と言うのだが、最高映画賞が金獅子だから、その下の賞はvolpi=キツネなのかなーぐらいに思っていた。まさか創設時代からの名前をそのまま使っていたとは。
Pasinetti(パジネッティ)も、現在の市立ビデオ・センターの名前になっているのだが、そういう人だったのか、と納得。歴史は侮れない・・・。

19 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-20 05:16 | 学ぶ・調べる

ベッルーノ

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ヴェネツィアからまっすぐ北に向かって、電車で2時間。
すっきりと晴れた青空の下、電車を降りると・・・寒いっ!駅から歩いて町の中心まで10分足らず、市役所の中にあるインフォメーションでもらった地図によると、標高383m、え?たったそれだけ?というくらい、空気は完全に「山」のそれ。ドロミテから流れてくるピアーヴェ川と、アルド渓流に挟まれた、小高い丘の上に開けた町で、大聖堂は崖の上に突き出るように立ち、その向こうには山の連なりが見える。
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大聖堂、現在の建物は1517年からの建造で、トゥッリオ・ロンバルドの設計によるもの。その後、何度も改装など手が加えられているが、内部は基本的に、側廊なし、シンプルな3廊式のルネッサンス様式。明るくすっきりとした構造で、両側には色大理石を使った華やかな祭壇が並ぶ。印象的なのはクリプタ。聖遺物などを収めるクリプタ(地下聖堂)はふつう、地下なだけに暗くてちょっとじめじめしていたりするのだが、こんな明るいクリプタはめずらしい。
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正面に奉られている、「聖マルティーノ」の祭壇画も面白い。聖人の物語を描いた14世紀の絵、中央は例の、聖人が物乞いに自分のマントを半分に切ってやる絵。一番下の段は16世紀以降の絵で補足されている。額縁も、中の1枚1枚の絵を区切っているのがゴシック様式なら全体の枠はルネッサンスで、後から付け加えられたものと思われる。

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広場の真ん中に、美しい姿で立つのは、Palazzo dei Rettori(パラッツォ・デイ・レットーリ、統治者たちの館)1409年より建造、400年近くベッルーノ地方の統治者たちの館であったが、1802年に完全に焼け落ちた、と解説にあるので、現在のものは再現ということらしい。ヴェネツィア風、とあり、実際、ヴェネツィア共和国の支配下に入って直後から建造されているのだが、1階部分をアーケードにして残すスタイルやその大きさは、イタリア中部~北部で、中世の自治都市で作られた市民議会のための館の伝統にのっとっているように見える。その名前も、統治者「たち」と複数形になっているところが、よりそう思わせるのか。

こういう地方都市では、食事も楽しみの1つ。本日の最大目的、ティツィアーノの展覧会の混雑状況を確認し、近くのトラットリア(食堂)に先に向かうことに。
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待つ間に出てきたパンかご、くるみ入りのやわらかい黒パンがおいしい。こういうのはヴェネツィアではほとんど見かけない。前菜は、「スペック(Speck, ヴェネツィア以北で食べる、ちょっと燻製がかった生ハム)と、ゴルゴンゾーラ・チーズとラディッキオ(紫キャベツ)のペースト」。これも、添えてあったパンが固くなりすぎないよう、程良く温めてあってうれしい。ペーストの濃厚具合が見た目以上においしくて、ついグラス・ワインも追加することにする。
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パスタとして頼んだのは、「ビーツ(赤カブ)とカボチャのロール」。オーブンで焼いたグラタン状の、チーズとベシャメル・ソースでいっぱいのものを想像していたら、さにあらず。甘くないクレープのロール・ケーキといったところで、一番外側にカボチャのペースト、内側のほうはビーツを煮て細かく刻んだものが巻いていあるのだが、中のほうはクレープもビーズの色がついていて、鮮やかなピンク色。こんなの初めてみた・・・。ヴェネト州あたりでは、ラザニアをいわゆるパスタでなく、クレープの皮を使って作ることがあるが、これはまた、オーブン焼きでない分また別の印象。見た目とは裏腹に、かなり素朴でシンプルな味。
こういうところはきっと、ドルチェもおいしいに違いないと思いつつも、あまりの満腹ぶりに断念した。
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町の、もう反対側といっていいくらいのはじっこにあるのが、サント・ステファノ教会。15世紀建造、大聖堂と同じ側廊なし3廊式ながら、典型的なゴシック様式で印象がずいぶん違う。地元出身の画家・彫刻家の作品が残る。
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もう1度、大聖堂のほうに戻ると、日が、ちょうどピアーヴェ川に光を反射しながら沈むところだった。
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同じ広場のすぐ目の前にある市民博物館(Museo Civico)は、1階が考古学室、最上階が絵画館になっている。絵画館はやはりベッルーノ出身の画家セバスティアーノ・リッチ、木工彫刻家アンドレア・ブルストロンなど。個人的には、途中階にあった個人の寄贈による銀細工の髪飾りのコレクションがとても気に入った。細い棒の先に飾りのついた、かんざし状のものなのだが、特に先がチューリップやユリ、さまざま花の形になっているシリーズがあるのだが、これは茎のところがバネ(コイル)になっていて、身につけている女性の動きに合わせて揺れるというもの。17世紀(だったと思う)に大流行し、肖像画などにもよく出てくるのだが、こうして実物をみるとなるほどという感じ。

出てきたころには既に真っ暗。日の動きとともに、その色と表情を何度も変える建物の美しさにため息をつきながら、寒さに追い立てられるように帰路についた。

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18 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-18 21:38 | ほかのイタリア

ベートーベン第九 ピアノ版

Le Giornate Wagneriane
13° edizione, Dedicate a Wagner e Beethoven

Ciclo Giovani Concertisti
Il sinfonismo teatrale di Beethoven nel pianoforte di Liszt

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Ludwig van Beethoven
Sinfonia n.9 in re minore op.125
Trascrizione per pianoforte di Franzi Liszt

Stephan Möller, pianoforte

ベートーベン交響曲第9番合唱付き、ならぬ、全曲ピアノ独奏。
ヴェネツィア・ワグナー協会による、「ワグナー週間」とそのシンポジウムの中のコンサート。以前、やはり同協会主催のコンサートで、ワグナーのオペラ曲をピアノで弾く、というのがあり、その時にもかなりびっくりしたが(旧ブログ、2006年2月14日付参照 http://blog.goo.ne.jp/fumiem2005/d/20060214 )、今日はなんと第九だという。年末,
には少々早いが、何かこれを聴き逃してはならない、そんな気がして会場へ足を運んだ。

この場合、いったい誰を一番称賛すべきなのだろうか、と始まったときに思った。作曲したベートーベンか、あのピアノに編曲したリストか。あるいはやはりそれを今ここで弾いているピアニストなのか、それともこれだけの表現力を有する、ピアノという楽器か。
聞いているうちに、いやいややっぱりそれは、目の前で弾いている、この人がすごいのだ、と思った。なにしろあの、「第九」である。「合唱付き」の。腕が8本あるのか、さもなくば指が30本くらいあるのか?本気で疑ってしまうくらい、音が多い、早い、強い、細かい・・・。
重厚で壮大な始まり。不協和音や下でひきずる音が多く、聞いていて胸が苦しい。が、この曲はさすがに私でも、最後にあの歌が来ることを知っている。それを、まだか、まだか、とどきどきしながら待つ。重くハンマーのように叩きつけられる不気味な音の合間に、ふと現れる軽く明るい旋律。行きつ戻りつしながら、いつの間にか垣間見えてくるあのメロディー。そうして苦しみを抜けて、やがて到達する「歓喜の歌」。あふれんばかりの喜びの光。初めてこの第九のよさがわかったような気がした。そうか、これは究極の救済の曲なのだ。信じるものだけに約束される、永遠の、天上での幸福。今晩はピアノだけ、とわかっているのに、天使の歌声が聞こえる。

約1時間半、有無を言わさずに弾ききって、終わった時には大きな拍手にも、何度も礼で答えたのみで、めずらしくアンコールがなかった。が、これだけ弾いて、この後に何をアンコールに弾けと?そう、ベートーベンとリストとStephan Möller(ピアニスト)とピアノ、この完璧な輪の一夜に、これ以上何ものも入りこむ余地はなかったに違いない。もちろん、会場となった、このワグナーの家、美しいカ・ヴェンドラミン・カレルジのサロンと、我々幸運な聴衆は忘れてはならない存在だろうが。

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17 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-18 11:10 | 聞く・聴く

ティツィアーノ、最後の記録

ベッルーノ、クレパドーナ館
2008年1月6日まで

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Tiziano. L’ultimo atto
Belluno, Palazzo Crepadona
15 settembre 07 – 6 gennaio 08
http://www.tizianoultimoatto.it/

16世紀ヴェネツィアを代表する画家、ティツィアーノ。ヴェネツィアで活躍し、イタリア各地で人気を博し、やがてスペイン国王カルロ5世、その息子フェリペ2世に重宝されたテイツィアーノ・ヴェチェッリオは、ドロミテ山脈、コルティナ・ダンペッツォから少し手前の、ピアーヴェ・ディ・カドレという小さな町に生まれた。今でも「ティツィアーノの家」が残っているほか、ティツィアーノ研究の学会もそこで開かれている。
その、県庁所在地にあたるのがここ、ベッルーノ。
ここ数年の間に、ロンドン、マドリッド、エジンバラ、と、大規模なティツィアーノ展が相次いだが、今回は、その生誕の地で大画家ティツィアーノの最晩年期を検証しようという試み。
まず、もともと当時としては異例なほどの長生きだったから(1490年ごろ生まれ、1576年没)、作品数が多い。加えて、当時はごく当たり前のことながら、受けた注文は工房内で自分の息子を含む、弟子たちと分担して仕事をした。TITIANSのサインは、だからあくまでも総合プロデューサーとしてのサインであって、自分の筆で100%描いたことを意味しない。人気のあった画題は、ほかからも注文が入り、ほとんど同じもの、少しずつ違うもの、同じテーマで複数の違う作品が存在する。

展覧会は、まず、「住居兼アトリエ」というセクションから始まる。ティツィアーノについて書かれた、当時およびそれ以降の本や、スペイン国王宛の手紙。顔料のほか、当時の貴族の舘や公館にあったはずの彫刻、ガラス、ビロードなど。それから、死亡記録。
そして、主に工房との共作、あるいは工房の作品。
正直のところ、「これは」という作品が少ない。ティツィアーノの作品といわれても、ほんと?と疑ってしまうものもある。やはりプロヴィンチャ(provincia, 県という意味だが、地方都市を揶揄する言い方でもある)レベルではこんなものかな、と思ったりする。グラフィック(素描・デッサン)セクションでは、自筆のデッサンが数点、これはやはりいい。あとは、版画家による、ティツィアーノ作品の写し(普及用)がほとんど。
肖像と、個人用の小さな宗教画。
それにしてもこの階、天井があまりにも低いのと、展示会場が細く狭い。今日はうまく空いている時間に入ることができたが、グループに囲まれでもしたらかなり不便だろう。ほとんどの絵を、ガラスなしですぐ間近で見られるのは大歓迎だが、大きな絵が、入口のすぐ横、入ってきたときに何の気もなしにうっかり障ってしまいそうなところにかかっていたりして、気になる。
1つ下の階には、「工房の画家たち」および「ティッツィアーノ後」。答えを知っていて言うのもなんだが、やはり巨匠は巨匠、工房は工房、追随者は追随者。
これで終わり?と下へ降りると、なんと、吹き抜けで明るい広々とした部屋に、ティツィアーノ3点。L’ultimo atto(最後の記録)と題されたセクションで、確かにいずれも晩年の作品で、手前に「法王パオロ3世の肖像」、そして、正面はあたかも墓碑のような濃いグレーに階段状の枠に囲まれた、「歩む聖ジャコモ」、同じトーンの、やはりモダンな枠に支えられた「最後の晩餐」。壁は全体がうすい赤。当時の作曲家による音楽がBGMで流れている。・・・なるほど、今日の展覧会は、これを見るためにあったのだろう。今までのは全部、前哨だったらしい。少なくとも、この展覧会の設営設計を担当した、建築家のマリオ・ボッタ氏は明確にそういうコンセプトを持っていたのであろう。そう思ってみればそうかな、と同調する。
が、真ん中に、ポンポンと置かれた、S字型の籐椅子は、座って絵を見るには不便な角度だし、数も少ない。みんなが、ゆっくりと目の前の絵を楽しみながら、今日の展覧会を頭でおさらいする、そんな時間のためには、もう少し椅子に気が利いていたらよかった。
一方、チケット売り場から監視員まで、館内の人が誰もみな親切で気持ちがよかった。

16 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-17 08:58 | 見る・観る

ドメニコ・スカルラッティとの出会い、12のソナタ

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ヴェネツィア、フェニーチェ劇場、アポロの間

Incontro con Domenico Scarlatti, con le 12 Sonate
Sale Apollinee, Tatro la Fenice, Venezia

「フェニーチェ友の会」(Fondazione Amici della Fenice)に入っている。これは、一番安い一般会員だと2007年までのところ年会費60ユーロ。それで、その年の1月から12月の間に同劇場で上演されるオペラ、バレエに関して、それぞれ数日前に「作品との出会い」という会、それから11月に、同会主催の国内ピアノ・コンクール、プラス・アルファで同会主催、共催などの催しの招待券や割引のお知らせが来る。

今日の出会い(Incontro)の相手は、ドメニコ・スカルラッティというバロック時代の作曲家。没後250周年ということだが、記念コンサートなどがあるわけでもなく、どういうことなのか、ここで単独の「出会い」の会が開催された。
1685年ナポリ生まれ、マドリッドで亡くなったスカルラッティについてはしかし、あまり詳しいことがわかっていないらしい。若いころは、ローマをはじめ、何カ所かを転々とし(ヴェネツィアにもいたとか)、リスボンにわたってそこで王女、マリア・バルバラの音楽家庭教師となり、彼女の嫁ぎ先マドリッドまで同行し、そこで落ち着いた。
1757年没、わかっているのはそのくらいで、死因すらもはっきりしていないという。
従って、彼の音楽的経緯についても、なぞが多い。500以上のソナタ曲を作曲したといわれるが、整理され、現存しているのは100曲ほど。そしていずれも、誰のために作曲したのかもはっきりしていない。マリア・バルバラのため、もあるだろうし、自分の(プロモーションの)ため、ということもあり得る。
伝記にあいまいではっきりしない部分が多いのに加え、彼の残した音楽もまた、まるで別人が作曲したのか、というほど違う曲が混在している。
・・・という概要の説明の後、ピアノで実際に少しずつ弾きながらの解説となった。(作品番号などの引用がなかったので、具体的にプログラムを挙げることができず、残念。)
①典型的なバロック・ソナタ。累進的な音階、流れる曲。
②①とうってかわって「カプリチョーザ」なソナタ。休止と休符の多用。同じ音型(figura)で、ニ短調からニ長調へ、との転調。いろいろな変化の試み。小さなテーマで始まり、センチメンタルなメロディーの挿入、そして元へ戻る。スカルラッティ熟年の豊かさ満載。
③落ち着いたソナタ。アルペジオで始まり、変化。不思議な音型は完全に18世紀の常識を越えている。ほとんど、シューマンの「森の鳥」のよう。最後は、静かに、オルゴールのように終わる。
1920年に、アルフレッド・カゼッラがScarlettianoという、ピアノと室内楽のための曲を作る。それは、スカルラッティのモチーフを使っていながら、最もカゼッラらしい曲になっている。
④軽いソナタ。ほとんどガルッピのよう。和音なし、単純化の極み。「猫のフーガ」。
スカルラッティはまた、ダンス音楽なども取り入れており、それがまた、後年、他の作曲家に取り入れられている。
⑤たいへん重要で複雑なソナタ。1738年にロンドンで30曲のソナタ集が出版されている。スカルラッティ本人の選択による、まさに珠玉集だが、実は彼がロンドンに行ったことがあるのかどうかすら、はっきりしていない。
実際、同年生まれのバッハから、そう遠い曲ではない。この曲では、2つのスタイルが、交互に現れる。1つは典型的、伝統的フーガ、もう1つは、トッカータ的で光輝くスタイル。それらがまるで質問と答のように、うまい対比を見せる。
⑥もう1つ別なソナタ。牧歌的、南イタリアの典型的なモチーフを使ったもの。移っていく音階が、時々変わった調子になる。ドビュッシーや、ラヴェルすら連想させる。
謎の多いスカルラッティだが、のちの多くの作曲家にいろいろ転用されている。ショパンのバッラータなども。
⑦牧歌的、ただし、北方ドイツ系のもの。ブルドン(bordone)が典型的な牧歌調のもの。同じメロディーを違う規則、すなわち、速度を変えて使っていることもある。
⑧18世紀の典型的な恋愛もの(galante)。初期のハイドン、超初期のモーツァルトとも共通するもの。対律するのではなく、似たような2つのテーマが交互に登場する。単純なソナタ作曲家としての、典型的イタリア・ガランテ(galante)。
⑨軽く速いソナタ。ダンス曲風。ダンス魂を盛り込んだ、3/8拍子、典型的ジプシー音楽の活気あふれる曲。
⑩スペインの特徴が現れたもの。出だしは通常のソナタ、一種のラメント(挽歌、lamento)をはさみ、カデンツァ。典型的スペインのワルツ風。鍵盤を強く打つリズムは、まるでタンバリンのようである。セビリア、またはポルトガルのダンス音楽からとったと思われる。これは、18世紀に既に、いろいろな要素を取り入れようとしたスカルラッティの真髄を示す、よい例であるといえる。
⑪再び、牧歌調。ほとんどユーモア的。ブルドン(bordone)による支え。
⑫最も有名なソナタ。1985年に生誕200周年でBBCがドキュメンタリーを製作した際に、BGMとして使われていた。絵画主義の始まりを予見させる、また華々しい、ファンファーレ的な作品である。同じ音型を、和音を変えて反復する。ある時点から、成長し始めたかと思うと、突然、ほとんど失望したかのようなリズムに。そして再びファンファーレに戻る。
18世紀を生きた、自由な芸術家、その典型的な人物であったことがわかる。

・・・と以上、まとめられないのでメモをそのまま書き写してみた。弾きながらの解説は、やはり断然わかりやすいし、面白かった。
今度はぜひ、一度きちんと、スカルラッティを聴いてみたい。

13 novembre 2007
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by fumieve | 2007-11-14 09:20 | 聞く・聴く