Basilicata coast to coast
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バジリカータ(Basilicata)。
南イタリア、長靴の形のイタリア半島のつま先にあたるカラブリア州と、踵にあたるプーリア州の間にはさまれた、まあ言ってみれば「土ふまず」の部分にあたる州。地味なロケーションそのまま、地味で何もない、僻地の代名詞のようなところで、戦時中、反ファシストのかどでこの地に「追放」になった画家、カルロ・レーヴィ(Carlo Levi)による「キリストはエボリに止まりぬ」という小説のモデルになったことで知られる。都会からきたレーヴィが、同じ「イタリア」国内にも関わらず、政治からも、そしてキリスト教社会からも見放された土地、その貧しさと悲しみと、そしてその人々との交流を描いた作品は、のちに映画にもなっている。小説と映画の舞台となったとはいえ、その内容がますます、この地の「僻地」さをイメージづけてさえいる。
ちなみに、エボリは、バジリカータ州境に近い、カンパーニア州の町。救世主キリストでさえ、エボリまでしか来ていない、バジリカータには足を踏み入れていない、ことを表している。
この映画は、そんな何にもない、田舎のバジリカータ、あれもない、これもない、ついでにマフィアもいない・・・せめてマフィアぐらいは来てくれないかな、と皮肉る田舎バンドの歌で始まる。(詳細うろおぼえだが、だいたいこんな感じ。)
個性豊かな、それでいて(南)イタリアならどこにでもいそうな、典型的な男ども4人。
この方の、これ以上的確な表現はないのでそのままお借りすると、
妻に頭が上がらない数学教師(ロッコ・パパレオ)、
売れない俳優(これがとてつもなく軽い男、
演じるアレッサンドロ・ガスマン素晴らしい!)、
悲しい恋の過去から立ち直れない建具職人(歌手のマックス・ガッゼ)、
あきらめかけた医学の道に再び目覚めるタバコ屋の若者(なかなかかわいいパオロ・ブリグリア)。
この4人が、同じバジリカータ州にあるスカンザーノ・イオニコ(Scanzano Jonico)の音楽祭に参加することになった。
ティレニア海側にある彼らの町から、イオニア海側にあるスカンザーノまで、車ならわずか1時間半ほどの距離。そこを、音楽祭の10日ほど前に出発して、全行程徒歩で行こう!・・・と、思いついてしまった、言いだしっぺの数学教師ニコラは、ヴォーカルとキーボード担当。
荷物を馬車に積んで歩き始めて、まだ数キロのうちに「足が痛い」と言い出す、かつて一度は有名なリアリティー番組に登場したことがあるらしい、ロッコ・サンタマリーア。痛いのもそのはず、歩いて行く、って言ってるのに、なんでよりによってそんな痛そうなブーツ履いてるんだ・・・。
その軽男に人生振り回されてきた従弟、ちょっと純情なサルヴァトーレは、ギター&ヴォーカル。一夜の恋と、あるアクシデントによって、自分を取り戻していく。
そんなハチャメチャくんたちを、終始静かに見守る、コントラバスのフランコ。口をきかない彼だが、その音楽と同様、このバンドにはなくてはならない存在。
そして、彼らの珍道中のドキュメンタリーを撮るために、不本意ながら旅に同行することになってしまったジャーナリスト、トロペアを演じるのは、イタリアの女優さんたちの中で色気でなく演技で鳴らす、おそらく現在ピカイチのジョヴァンナ・メッツォジョルノ。(
こちらで紹介済)
実はお育ちもよろしく、いかにも頭もキレそうな彼女だけが、この映画の中で唯一都会的な存在。はなから斜に構えて、男たちの間でマドンナになるでもなく、違和感を放っているのだがそれがかえってリアルで、まるで、ジョヴァンナという女性そのもののように見えてくる。
旅の途中、ちょっとしたいろいろな出来事をヒントに、どんどん即興で歌を作っていく。
その歌がいい。
そして、その背景となったり、しばしば目の前に広がるパノラマとなるのは、荒涼とした丘陵地帯に、そこにいるヤギやヒツジの群れ。強い日差し、ところが、9月だというのに、ときに夜更けは凍えるほど寒くなる、厳しい自然。あるいは、天災のあと、見捨てられた古い石造りの廃墟の町。そしてときには、まさに映画の中のような、昔ながらの片田舎の町並みに出会う。
「何もない」と言われる風景、だが、ほんとうに「何もない」のだろうか?
「キリストはエボリに止まりぬ」の、小説や映画を知る人には、ひょっとするとおなじみの場所も出てくるかもしれない。お恥ずかしながら、これまで読んでみたいと思いつつ本も読んでいない私は、一度ちゃんと読んでみたいと思った。・・・とりあえずは映画を見るほうが簡単かな・・・。
8 luglio 2010