今日のヴェネツィアは朝から大雨、お昼をはさんでアックア・アルタ。
そして内陸のトレヴィーゾ、ウディネではなんと初雪。海の町トリエステでも降ったらしいから、その手前にあるこのアクイレイアでも雪が舞ったかもしれない・・・。
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(この原稿は、数年前にまとめたものに、加筆・訂正を加えています)
「モザイクの旅」シリーズ
盛夏~アクイレイア
1:
ローマ遺跡の中の小さな町
2:
キリスト教最古の大聖堂
大聖堂の中、正面に向かって左側に小さな入り口がある。入ってすぐのところには、幾何学模様など、比較的シンプルなデザインのモザイクがある。これは、紀元前1世紀のローマ人の住居のものとされている。
キリスト教公認後、わずか数年で奉献されたこの大聖堂、当地の司教テオドーロが、ここに既に存在した建物を再利用し、急ごしらえで建造したものだった。
時は、ミラノ勅令直後の紀元後314年。その聖堂は、当時の習慣、用途に合わせて、コの字型をしていた。平行に並ぶ、2つの長方形の部屋のうち、南側に位置するのが、現在の大聖堂の場所とほぼ一致する。つまり、先日紹介した、広々と敷き詰められたモザイクは、実はその全体像の約1/3でしかなかった。
この中では、平行2つのうちの北側の部屋、及び、その平行な2つを結ぶ西側の部屋のモザイクを見ることができる。
約2,500メートルあったこの大聖堂も、同世紀末には既に手狭になり(!)、一旦改築される。だが、6世紀にロンゴバルド族の手に落ちると、総大司教は、北東イタリア一帯を管轄下に置いていた一大司教座を、この近くにあるグラードという島へ移してしまう。
ロンゴバルド族もキリスト教徒だったから、彼らは彼らでここに総大司教を置いた。一時は北イタリアから中部にかけて、多くの町や地域を支配したものの、基本的には各町ごとに独立していて、一人の王や首長が広い範囲を統括することはなかったとされるロンゴバルド族にとって、「総大司教座」という立場はあまり重要ではなかったのだろうか。アクイレイアの町は長く衰退の時期を過ごす。
が、9世紀にフランクの王カール大帝の手に渡ると、その重要性が再認識されるようになった。大司教マッセンツィオは荒れ果てた大聖堂の大改築に取り組む。このときに、三廊式、後陣と翼廊を持つ現在の大聖堂の形が、ほぼ完成されたようだ。
しかし、わがモザイクにとって決定的打撃となったのは、11世紀に追加された鐘楼であた。その要塞のような、頑丈な鐘楼は、モザイクが敷き詰められていた北側の部屋の、ほぼ半分を占める形で建てられている。
ここではしたがって、その鐘楼を囲む形で残されたモザイクを見ることになる。大聖堂内で見るものと、スタイルなどは基本的に同じだが、また一段とユーモラスな感じになる。いわゆるお供え、なのだろうか、山盛りにしたキノコやエスカルゴ。ほほえましい、うずらの親子。果物や鳥のモチーフが豊富に、色鮮やかに展開する。
それにしても、なんと多くの鳥たちが描かれているのだろう。その観察力には脱帽するばかりだ。ふと、ヴェネツィアのサンマルコ大聖堂の「創世記」を思い出した。そうだ、神は、動物と人間を創る前に、鳥と魚を作ったのではなかったか。「キリスト教初期」と、あとから呼び習わせるこの時代に、天の創造物、鳥や魚に特別に注意が行っていたのは、偶然とはいえ、なんだか面白い。
ぜひとも見逃してはならないのは、雄鶏と亀がにらめっこをしているような図。まるでおとぎ話の一場面、これにはもちろん意味がある。夜明けに歌う雄鶏は、光、すなわち救世主キリストの登場を知り、それを告げるもの。一方、深い水中に住む亀は、古代ギリシャ語からの転用で、「闇に住むもの」を意味する、と解釈されている。光が見えないもの、ということだろう。あるいは、古代ローマ末期には、あわれな亀は悪魔をも意味していた。
つまりこの構図は、キリスト教対悪魔、あるいはキリスト教の光と、異教の闇との対決を暗示しているらしい。
ちなみに、デザインはもう少し簡素なのだが、同じ構図が本堂内のモザイクにも登場している。
26 novembre 2010