ミラノから電車で10分、ミラノ郊外と言っていい距離にあるモンツァ(Monza)の町は、モータースポーツ好きの人には、F1のイタリア・グランプリ開催地として知られている。
駅から歩いて5分ほどですぐに「歴史的中心区」に入り、さらに5分も歩かないうちに、この小さな町の規模からするとビックリするくらい立派なドォーモの前に出る。
テオドリンダ(Teodolinda)は570年ごろ、バイエルン公と、ロンゴバルド王の娘との間に生まれる。当時の一次資料は現存せず、すべて、8世紀に修道士パオロ・ディアコノがシャルル・マーニュ(カール大帝)のために書いた「ロンゴバルドの歴史」の記述によるのだが、そのテオドリンダは18歳で、当時のロンゴバルド王アウターリ(Autari)と婚約。アルプスのすぐ向こう側で、同じくフランク族の攻撃に悩む彼らと手を組むための政略結婚だった。
(結婚の前にひそかに将来の花嫁に会いに来たアウターリ一行を、それと知らずに歓待するテオドリンダ)
結婚式は589年5月15日、ヴェローナ近郊のサルディという地で行われた。
フランク王国とビザンチン帝国にはさまれた北イタリアで、それまでバラバラになりがちだったロンゴバルディの各地の公爵をまとめ、王国強化をはかる目的もあり、この結婚を機に、王の拠点がヴェローナ(Verona)に定められた。それは、ロンゴバルド族が支配する北イタリア平野部の中心地にあり、かつ、バイエルン地方からブレンナー峠を越えてイタリア半島へ入る際の到着点でもあったため。
(ヴェローナへ向かうアウターリとテオドリンダ)
だが、フランク族はアルプスを越えヴェローナに迫り、王家はパヴァア(Pavia)に逃亡を余議なくされる。590年9月5日、王アウターリはパヴィアで客死。
「ロンゴバルドの歴史」の著者、ディアコノによると、アウターリの死後、「女王」テオドリンダ自ら、再縁の相手でありかつ王位後継者として当時のトリノ公であり、亡きアウターリのよき協力者でもあったアジルルフォ(Agilulfo)を選んだ。
(ロンゴバルディ女王として承認されるテオドリンダは、二人目の夫を自ら選ぶ。)
今度の結婚式は590年秋、パヴィアにて。結婚の儀の前に、同じキリスト教でも、アーリア派の信者であったアジルルフォの、カトリックへの改宗のための洗礼式も行われたという。
(結婚晩さん会)
(ロメッロで出会うアジルルフォとテオドリンダ)
(テオドリンダとアジルルフォの結婚式)
翌591年、アジルルフォは正式にロンゴバルド王の称号を得るとともに、首都をミラノに移し、一方でテオドリンダの意向で夏の避暑地としてモンツァが選ばれた。
そして595年。モンツァの町が、特別にテオドリンダを大切にする、そのきっかけとなる事件が起きる。伝説によると、あるときオークの木の下で休んでいたテオドリンダのもとに鳩が飛び入り、”Modo" (ここ)と示すと、テオドリンダは、"Etiam" (はい)と答えるのだが、その2つの単語をつなげると、 “Modoetia”、モンツァ(Monza)の旧名になるというわけ。鳩は聖霊。聖霊がテオドリンダに、ここに聖堂を建てるよう示唆した、それがそのままモンツァという地名になった、ということらしい。
(鳩の姿になって現れる聖霊)
(モンツァ大聖堂の建造)
テオドリンダとアジルルフォが建てたという最初の礼拝堂は残念ながら残っていない。現在のドォーモ地下から発掘された、前述3名の墓から、その当時の様子を窺い知るのみである。
フランクとビザンツに狙われ、また、カトリックのローマ人とアーリア派のロンゴバルド族という対立の中で、公爵たちの反乱も退けたテオドリンダとアジルルフォは、ロンゴバルド王国を固めていく。
616年にアジルルフォが亡くなると、幼くして王位についた息子アダロアルドの摂政としてテオドリンダが引き続き実権を握る。この時期、テオドリンダはカトリックへの依存を強めるが、これはアーリア派の公爵たちの反発を買うことになった。
(戴冠式の日に、母親テオドリンダの願いにより大聖堂に寄進をするアダロアルド。)
王の姉グンデペルガの夫、トリノ公アリオアルドは625年、謀反を起こす。廃位に追い込まれたアダロアルドは626年に短い生涯を終える。
(謀反への出発)
翌627年1月22日、あとを追うように亡くなったテオドリンダは、夫アジルルフォと息子アリオアルドのそばに葬られた。
その後1308年に彼女の霊廟は整理され、遺体は新たに用意された棺に納められた。現在はドォーモの「テオドリンダ礼拝堂」内に安置されている。
「テオドリンダ礼拝堂」(La Cappela di Teodolinda)は、その三方の壁がテオドリンダの物語を描いたフレスコ画で埋めつくされている。ここでさきほどから続けて紹介している絵のシリーズだが、これは15世紀中盤、ザヴァッタリ(Zavattari)ファミリーとその工房によるもの。
残念ながら現在は全面修復中で、一番下の段など、既に修復が終わって覆いが外されているところのみ、目にすることができる。
描かれた当時、つまり15世紀の中盤の貴族の服装。ほっそりとした体つきに柔和な表情は、ピサネッロ(Pisanello)などの影響が明らか。15世紀中盤といえば、フィレンツェではルネサンス文化が大きく花開き、金塗りの背景から解放され、聖書の物語でも自然の空間の中に描くのが主流になる頃。だが、ここではまだ、背景は金で塗り込められている。といっても、花模様になった部分がうっすらと漆喰で盛り上げた上に色が塗られて、まるで錦織りのような効果を生み出しているが、こういった芸の細かさもまさに国際ゴシックの特徴の1つ。そういえば先日、ミラノのスフォルツァ城内礼拝堂でも見たばかり。
北イタリアにおける後期ゴシック、または国際ゴシック様式を代表する作品。
修復工事終了予定は2012年。2012年の1月なのか12月なのかは不明だが、この様子から見て、1月は難しいだろう。全面公開されたら、またぜひ見に来たい。
(室内の写真、および本文も公式サイトの内容をそのまま参考にさせていただいた。
www.museoduomomonza.it )
8 ottobre 2011